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同人書評:【レモネード航空】より『貨物船で太平洋を渡る』

11/26/2021

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​ 実家が海の近くにあったので、今のようにマンションが乱立する前はベランダから小さく海を臨むことができました。夜になるとたまに遠くで汽笛が聞こえてきて、小さかった僕がそれを聴くのは布団の中でした。そうして眠りに落ちると僕は大きな客船に乗っていて、他に人影はなく、ただきらきらと光る海面を眺めながら僕はどこか遠い異国へと運ばれていく。そういう夢を何度か見たことを覚えています。
 
 
今思えばベランダから見えた海は貨物港で、国内線の小さい貨物船しか寄港しないし、正面にあるのは房総半島なので絶対に異国へは連れて行ってくれないんですが、子供の頃ってなんでも冒険に結びつけちゃうんですよね。まぁそんなこんなで僕は今でも海が好きで、うちの雑誌にもちゃっかり「海」が入っているんですが、とにかくそんな僕が文フリに参加する前からTwitterで気になりまくっていた同人誌を今日はご紹介したいと思います。


※ネタバレを含む書評となりますので、未読の方は読んでからご覧いただくことをお勧めします。
※各所引用を含んでおりますが、作品のクオリティ担保のため表紙以外の写真は使用しておりません。
​ぜひ著作をご覧いただきたいと思います。


​

レモネード航空『貨物船で太平洋を渡る』

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もう、タイトルから男の、いや漢のロマンをビシバシ感じる。
「太平洋を船で渡る」だけでもわくわくさせてくれるのに、「貨物船」です。
え?そんなこと可能なの?
 
そして外観。
​
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​ご覧の通り背表紙にしか表題がなく、表裏の表紙には大きく写真が置かれています。

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表は船体に押し寄せて弾ける白波が、裏には夕暮れの中横たわる無数のコンテナが、それぞれ写っています。確かに、これに白抜きでタイトルがあっては邪魔になってしまうかもしれません。無条件に目を引く、美しいデザインです。

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そしてページを捲るとめちゃくちゃかわいいロゴが!
 
 
ちなみにこれは本が入れられていた封筒にもスタンプで押されていました。
 
 
ここまでの情報で既に満足気味だった僕ですが、勢い込んで内容に入っていくとあれよあれよとページを捲ってしまい、そのまま読了してしまいました。仮にも「書評」を謳っているのでもちろん内容も触れていこうと思いますが、先に書いておきます。
 
 
この同人誌、マジでとんでもない本です。


​

凄まじい情報量


​
​まず目次を見ると「はじめに」というサブタイトルが見えたので、「執筆にあたる経緯かな?」と思い隣のページに目を移したんですが、そこには夥しい量の文字情報が詰め込まれていました。
冒頭の文章を引用させていただきます。

 数年前から船舶全般に対する興味が高まり、国内の長距離フェリーや海外航路を走る貨物線への乗船、小型船舶免許や関連する海上無線資格の取得などを経験しました。こうしたイベントを通じ、自身の興味が船旅から海上交通の決まり事、海運へと進んでいくことを感じていました。特にコンテナを中心とする海上流通の奥深さは私の心を掴んで離しませんでした。「何とかして、コンテナ船に乗船出来ないものだろうか。」今回はこのような興味から始まるコンテナ船乗船記です。
(p.3 / l.1)

え?
小型船舶免許?
海上無線資格だって?

 
 
思ってもみない情報に、一瞬茫然としてしまいました。僕は何も考えずに、大型のフェリーのような貨物船が存在していて、それに数日揺られながら窓の外の写真が並んでいるような、そういう「一般的な」船旅の派生だと考えていたのです。
 
 
そこからかけ離れた《ガチ勢》感。
なんだか初っ端から申し訳ない気持ちになりました。
 
 
そして、特筆すべきは冒頭文章の情報量です。
確かに経緯であることに間違いはないんですが、この熱量、この整い方。まるで海運商社に出す志望理由書です。僕が人事だったら間違いなく採用する。面接なしで採用する。
 
 
さらに「はじめに」はこれで終わりません。その後は旅に関する厖大なデータが記述されてゆきます。
旅行概要に始まり所要日数、条件、旅行費用とその詳細な内訳、用語の解説。そしてその後第1章「旅程立案と資料請求」へと進みます。その後も必要な書類や契約すべき保険、連絡した代理店など事細かに行動が整理されて書かれており、後塵を拝す旅行者は大助かりでしょう(コンテナ船で太平洋を渡る冒険者が他にいればですが)。
冒頭の文章から先、著者の「動機」が明確に記されている部分はないに等しいのです。それはおそらく、著者にとってこのコンテナ船の旅が絶対に「必要」なものであり、実施することは前提条件かそれ以前の問題だからなのでしょう。それだけの意欲と覚悟をもって旅行を計画し、実行に移したからこそ、執筆の段階で熱量を注ぐべきは可能な限り情報を整理することだった。そんな印象を受けました。
縦書きじゃなかったら外資コンサルのリサーチレポートかと見紛うほどのクオリティだな、と考えて、あることを思い出しました。
 
 
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、先ほどの表紙の写真、波の写っている方が表です。ということは右開き、つまり縦書きで書かれているんですね。
こういった写真が多く挿入された大判の冊子って、個人的には美術リーフレットとかカタログのように左開きであることが多いように感じます。現にこの本を手に取った時、僕は最初裏から開いてしまいました(そしたらとんでもない量の参考文献が出てきました)。
 
 
しかしこの本は縦書き。文中には英文や数値など横書きの方が簡便なものも多いにもかかわらず、です。
僕はこの、一定の難読性を孕んでも縦書き表記を選んだ部分に、「これは旅行文学なのだ」という矜持めいたものをこの時感じました。読み終えた今となっては、これは半ば確信に変わっています。
​
​

出だしからスリル溢れる展開



​情報の小波をかき分けてしばらく進んでいくと、あたかも湾内から沖合に出てうねりに飲まれるように、いくつものトラブルが著者(主人公)を襲います。関係各所との書類やメールのやり取り、難航する手続きの数々は、並の旅行者なら逃げ帰ってしまうようなものばかりです。しかし著者はそれらをユーモラスな描写や色合い豊かな数々で彩ることで、読み応えのある、テンポの良い文章としてあらわしています。
 
 
例えば、横浜の旅行代理店の店員らが「コンテナ船旅行者」という前代未聞の処理を迫られ混乱している様を見た著者の、
「しまった、息をするようにご迷惑をおかけしてしまっている。」
(p.10 / l.16)
といったセリフであったり、
やっと辿り着いた乗船地ブリスベンにて、いざ船旅のスタートを切ろうとした矢先、
コンテナ船に備え付けられた鉄製の長い階段を登ると、保安担当の方に声を掛けられます。
 
「ここで何をしている。」
 
心温まる出迎えではありませんでしたが、ここはザ・リッツ・カールトンではありません。
(p.15 / l.15)
と言うクスッとしてしまうような描写があったり。
こう言った文に釣られるようなかたちで、段々と自分も一緒になって旅をしているような気分が込み上げてきます。ユーモアとスリルのバランスが見事な、流れるような文章運びです。

​
​

いざ、横浜へ



いよいよ乗船。見開きで夜の帷の中に浮かび上がる巨大なコンテナ船が現れ、次ページから船旅が始まります。
目指すは日本、横浜。そう、これは「日本に帰る物語」なのです。
 
 
文章は沖合から外洋へと滑り出してゆき、波は静かに読者の周りを取り囲んでいるかのようです。進むごとに変化する空や雲の様子、船内の様子や船員との会話が淡々と連ねられています。
 
 
ユーモアが散りばめられた文体はそのままに、文章の表情は穏やかなものとなっていきます。船内の設備や食事の様子は写真とともに詳しく語られ、著者の感想や独特の視線と共に非常に面白く描かれています。まさに旅行記という雰囲気が好奇心を唆り、ページを繰る手が止まりません。
 
 
ゆったりと静かな情景が続き、ありふれた異国の紀行を見ている気分になっていると、唐突に海の恐ろしさが立ち現れます。途中の避難訓練(Drill)のシーンなどは「そうか、船は穴が空いたら沈むんだな」という当たり前のことを無造作に突きつけてきて、ぐっと作品のリアリティを引き上げていると言えるでしょう。
 
 
文章もさる事ながら、写真の美しさが作品の魅力を何倍にも引き上げています。錆び付いた甲板、油の匂いが漂ってくるかのような機械の数々。前半とは打って変わって色彩が抑えられた写真の連続は、もしかしたら表紙から裏表紙にかけての色調のグラデーションを成しているのかもしれません。それは著者(主人公)の心境、目線の変化を導いているようにも見ることができます。

​
​

旅の終わり



あっという間に、本当にあっという間に、船は横浜に着いてしまいます。
無事に着いてほっと胸を撫で下ろすと同時に、もうこの旅が終わってしまう喪失感、もっと一緒に旅をしていたいという無闇な欲求が読者を満たします。
 
 
最終ページ。表紙の写真、コンテナ船上部から見下ろすアングルが、コンクリートの埠頭へ着岸したことを示すために再度使われています。見事な対比によって寂寥感がさらに強くなります。
 
 
 
退船前に船員の一人との会話。彼はまだ数回、同じ航路を往復することになることが明かされます。彼の旅はまだ終わらない。一緒に連れて行ってくれ、と僕は叫びたくなるも、中盤の「海の恐ろしさ」が思い出され、言葉に詰まる。そんな複雑でもどかしい気持ちになり、単調に行われる帰国手続きの文章を目で追うしかありません。
そして、そんな感情のまま、物語は幕となります。

​
​

「冒険」の経年変化



冒頭でも書いた通り、僕は今でも海が好きです。幼少期に思い描いた船旅を、いつか実現したいと密かに思い続けいた自分を、今や認めるほかありません。
しかし、当時思い描いていた異国への船旅は、その先の土地、つまり、穏やかな田園風景であったり、宗教建築物の群れだったり、荒涼とした砂漠や茹だるような雨林、雄大な山々、はたまた瞳や髪の色様々な人でごった返す市場のような、そういった写真や映像で見る異国の面影と地続きだったように感じます。
 
 
この本の船旅は、そういう我々が思う旅の醍醐味のようなものを提示してはくれません。むしろ対照的な、なんというか、非常に個人的で、慎ましい、錆や油と潮風の匂いをもたらすに留まっています。
 
 
ですが、わくわくします。言葉で表せないほど好奇心を刺激してくれる。
それはもしかしたら、僕がもう大人だからなのかもしれません。子供の頃に憧れた旅は、飛行機や車を使ってもうあらかた見た景色でできています。行ったことのないグランドキャニオンも、なんなら行く術のない火星の景色だって、グーグルマップで見ることができます。そうした情報の断片から、その土地の風景を想像することを続けた結果、いつしか本当に驚き、ときめいて、感動するようなことがなくなっていたのではないでしょうか。
 
 
経験値のない子供の頃、毎日は冒険の連続でした。
じゃあ、大人になった僕たちの冒険って何なのでしょうか。色々見て知って、想像してきてしまった僕たちがまだ知らない景色。それを、本書は見せてくれているのだと、僕は思います。
 
 
著者は冒頭で本書を「コンテナ船乗船記」としています。ですが、僕にとってはこの本は「冒険小説」だったようです。昔読んだ『エルマーの冒険』や『宝島』のような、わくわくさせてくれる冒険譚。色合いは変わっても、抑えられないほど心が揺らされてしまうこの感覚は、まさしく冒険のそれなのです。『貨物船で太平洋を渡る』は、間違いなく僕の人生をレモネードのような爽やかさで、豊かにしてくれたと思います。
 
 


余談ですが、このクオリティで著者は1人、文フリのブースも単独でいらっしゃいました。校正者にご家族の方らしき名前が見受けられるものの、ほぼ全ての作業をお一人でされているようです。凄まじいセンスと努力を感じます。
 
 
また、同人誌作成のステップについて、noteやTwitter(@lemonade_air)で詳細に語られています。作成の動機や目標、こだわったポイントなど、こちらも丁寧にまとまっていて読み応えのある記事です。
(参照リンク:【旅行記同人誌を作成した話】)
ご購入がまだの方、もしいらっしゃいましたら、リンク先の取り扱い書店一覧をぜひチェックしてください。


​

この本は、しばらく本棚の一番目立つところに収まると思います。ふとした時、手にとって眺めたい作品。そういうものを僕たち習作派も作っていきたいものです。
 

長々書いてしまいましたが、本当に面白い文章でした。田巻さんのこれからにも大いに注目したいと思います。
 
 
 
 
それでは、夜も更けてきたのでこの辺で。

​

久湊有起(習作派編集部)

​
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文芸書評:【ラドン】より『上陸』

12/4/2020

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月並みですが、早いもんで12月ですね。

いよいよ迫る年波に対抗するべく(?)地元ヤンキーがよく着てる「着る毛布」ってやつを買ってみましたが、確かにあったかいものの顔と手先だけはどうしようもなく冷えるので、結局ファンヒーターを解禁しました。ヤンキーもなかなか苦労しているようです。



​少し間が空いてしまいましたが、第4回目はラドン「上陸」レビューです。


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装丁
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​暗く荒らしい海を背景に中央で分割された蛍光色の「上陸」の文字。
これでもかと目を惹くデザインです。

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​よく見ると背景は油絵のようです。白波が真ん中に配置され、手前の岩べりにも力強く重なっている。粗野に見えるタッチですが、波間の色の重ねや奥から迫ってくる何か(おそらく『ラドン』)のあらわれから、その細かな筆遣いが見て取れます。なんかこううまいこと言葉にしたいんですが「大胆かつ繊細」なんていう常套句しか出てこないのがもどかしい。


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背表紙と裏面は文字の蛍光色で統一され、ロゴの上に一筆書きの足跡が付されている、というか踏まれている。とても凝った作りです。「新しい」という言葉がしっくりくるデザインですね。すごいなあ。
表紙を担当された(と思われる)「安倍志緒里」さんについてちょっと調べてみましたが、この御名義では検索には引っかかりませんでした。もっと他の作品も見てみたい……。
 
 
 
さて、毎度のことですが同人誌ですので、全編について書いているといつまで経っても書き上がらず、気づいた頃には次の文フリでした、となりかねないため、一編に絞って書いていこうと思います。






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直嶋犀次『Slip and Slips』




文フリ会場で直接買わせていただいたご縁ということもあり、今回は直嶋さんの作品について書きたいと思います。



​当初僕はいつものように、あらすじを書かせていただきつつ書評を進める、という形式で書こうと思っていました。読み終わった「上陸」を机に伏せ、ノートのページをめくってボールペンをノックし、いざ書き始めようとなかぐろを1つ打って、何から書けば良いのか分からなくなりました。
 
 
 
『Slip and Slips』では、何も起こりません。私小説ではないものの、取り立てて事件が起こるわけではない。ナンセンス的展開があるわけでもない。難解な構造や文章があるわけでもない。主人公を通して、彼女の1年間を追っていく、言ってしまえばそれだけの話です。今まで書評をあげてきたような作品とは決定的に違う、そう感じます。
 
 
 
「面白かった点は」「強いて挙げるなら改善点は」というような感想を書いても、なんというか空虚なのです。しかし「印象に残ったシーンは」と問われば、それは間違いなく答えられる。「面白いのか」と聞かれるまでもなく「好きだ」と叫ぶ、そんな類の短編でした。
 
 
 
どう書くか決めかねましたが、ぽつりぽつり思いつくことを書いてみようと思います。まとまりのない文章になってしまったらすみません。


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「重なり」の文学



Tinderで浮気をした女
相手の年下の女の家に通うようになる
夏の終わりを最後に彼の家へ行くこともなくなり
秋が来て、冬を過ごし
春のはじめに元彼からプロポーズを受ける
婚約を受け、年下の男に連絡をとると
彼はひとまわり大人びて見え
彼との会話の中で新入社員の女の子のことを思い出す




あらすじを無理に書き出すとすれば、本作はこのように要約されます。
しかし、前述の通りこの筋には何ら意味はなく、事実を主人公の目線で追うための標でしかありません。本作の魅力を一言で言ってしまうのならば、それは「重なり」です。
 
 
 
「事実があるのだから、理由があるはずなのだ」なんて永井均みたいなことを言う主人公の女性から語られる、余計な連体修飾のない、切れ味のある文章。熱量を持たない文体で引かれた白糸に、上品な質感の横糸が無数に通され紡がれる絹織物のようなストーリー。通される横糸には全て、「ズレ」という共通点があります。
 
 
 
主人公が会社で扱う会計システム。複雑怪奇に書き表されるこのソフトは、全ての用語が英語で表記されています。単語の専門的な意味がわからなかった彼女は全てGoogle翻訳に流し込み、一字一句意味をノートに写しますが、同期社員にそれを訂正されることになります。​

「これ、ひとつめは伝票、だと思う」と軽く言うこの同期はいい大学を出ていた。それから彼は笑って、「次のは突合、だよ。和解って何さ。誰と和解するのよ」
ひとつめは「slip」、もうひとつは「reconciliation」という単語への言及です。彼女は「slip」を「ズレ」、「reconciliation」を「和解」と訳していました。
 
 
 
モノローグの終盤、印象的に配置されたこの秀逸なエピソードは、奇妙な引っかかりを残します。いや、それまでの語りの中にも引っかかりはあるものの、また異質なのです。この「ズレ」「和解」という誤訳がこの文章を小説たらしめているそのものであり、もっとも文学的だとも言えます。
 
 
 
高校生の頃の荒れていた自分、大学で周りにあわせてギャルになった自分。そんな自分を受け入れてくれた「涼くん」、彼を裏切るようにして出会った「門脇くん」。バスケをする子供たち、彼らの母親、淡々と過ぎていく日々。いつの間にか変わっている周囲(世界)、取り残されていく自分。そういう「ズレ」がひとつひとつ、主人公の目線に織り込まれてゆきます。



​

コーヒーにミルク、入れる?入れない?



印象に残った描写という観点でいくと、コーヒーに入れるミルクの量についての言及があります。
 
 
 
「涼くん」は就寝前に飲むコーヒーに、ほんの数滴のミルクを入れます。その数滴のせいでよくわからない液体になってしまったコーヒーに、主人公が淡々と考えを述べるシーンです。

そんな少しだけ入れて、コーヒーなんだかカフェラテなんだかわからない状態では気持ち悪いから、私ならもっとたくさん入れて、誰がどう見てもカフェラテなものにするのに、と思う。そしてコーヒーが飲みたいのであれば、牛乳なんて入れなければいい。牛乳を数滴入れた時点で、それはもうコーヒーではない、不思議なものの気がする。もう混ざってしまって、元のわかりやすい状態には戻せないのだから、いっそのこともっと牛乳を入れて、全てを有耶無耶にしてしまいたくなる。私の性格には合わないそういう飲み物を、涼くんは好んでいた。
「もっとたくさん」「もっと牛乳を入れて」と2度も強調していることから、この涼くんの飲む液体に対しての理解できなさが見られます。前述の「事実があるのだから……」同様、主人公の性格を表す描写です。
 
 
 
余談ですが、この理論には僕は否定的です。カフェラテだろうがカフェオレだろうが、単に苦味を抑えて飲みやすくしているだけにしか思えません。風味を楽しむなら牛乳は邪魔で、飲みにくいというならコーヒー豆を挽く資格はありません。ミルクティーやティーラテのように、ミルクを先入することでタンニンとミルクが反応して風味が変化するようなこともないのですから、コーヒーにミルクは邪道です。その前提でどうしてもミルク入りのコーヒー的なものを飲みたいのであれば、本場イタリアの飲み方であるエスプレッソに少量のミルクを入れたカフェラテが許容範囲ギリギリです。カプチーノ?知らんそんなものは。
 
 
 
閑話休題、文字通り「白黒はっきりしたい」主人公ですが、言動不一致な箇所が散見されます。くっついて別れてを繰り返し、現在は別れている「涼くん」とは同棲を続けていますし、別れているにもかかわらず「門脇くん」との行為は「浮気」と断じています。こういった部分には「血の通い」を感じることができますし、「ズレ」というものがここにも顔をのぞかせています。
 
 
 
時系が前後しますが、「門脇くん」はコーヒーにはしっかりミルクを入れます。普通のコーヒーにフレッシュを入れるカフェオレですが、主人公はここに自分との共通点を見ているように思えます。「涼くん」にはない、「新しい」要素です。
 
​

「正しい訳」と「誤訳」



カフェを出て「門脇くん」の部屋に向かうと、部屋に猫がいるといいます。彼女は猫アレルギーです。にも関わらず入室を了承するのは、彼の「新しさ」にそれだけ興味を持っているからでしょうか。
セックスを終えると、案の定彼女はくしゃみが止まらなくなります。そして鼻をかみながら、奇妙な空想が始まります。この部屋に住んでいるのは自分と涼くんで、ずっと前から2人と、それと猫で暮らしてきた――。
 
 
 
この描写、この文脈での挿入、圧巻です。これだけで一読の価値があると言っても差し支えないでしょう。引用しようかとも思いましたが、ぜひこれは文脈の中で読んでほしい。猛烈なリアリティを読者に突きつけ、「涼くん」との「ズレ」、現実と空想の「ズレ」、自分の中の「ズレ」を1センテンスでまとめ、その後の「門脇くん」への接し方への転換点にもなっている。僕が読後一番印象に残っていたシーンです。
 
 
 
登場人物たちとの「ズレ」を感じつつ、それを修正できないでいる主人公を見ていると、あたかもその登場人物たちの方が特異であるように映りがちだと思いますが、本作『Slip and Slips』ではそれが見られません。逆に言えば、一人称視点から男たちを見て、会話が抑えられることで彼らの人間性の要素を排し、変化だけをフォーカスしているように見えます。
 
 
 
このたくらみは成功していて、終盤プロポーズしてくる「涼くん」や、再会した「門脇くん」たちは明確に変化しているのに対し「わたし」は無変化でいるというコントラストが非常にわかりやすくなっており、物語のエネルギーを急激に引き上げてゆきます。
 
 
 
また、ここにきて「reconciliation」が効いてくるのも上手い。

とにかく複雑、怪奇なのだ。同じことをしていたはずなのに、出てくる結果が違ったりする。同じになるはずの数字が、ずっと違うまま、一致しない。
とにかくこのシステムは謎を孕んでいるのだ。内部には、どれだけ強い光で照らしても永遠に暗いままのところがあって、運が悪いとそれがわたしの画面に姿を現してくる、つまりこれは占いみたいなものだ、とようやくわたしが降参したのは、一年目が終わりかけた頃だった。

​会計システムの描写からの抜粋ですが、ここでいう「永遠に暗いままのところ」からはじき出された数字が「ズレ」ている、という構造になっており(なんて書くのも恥ずかしいですが)、「わたし」が「門脇くん」を見ている間に「永遠に暗いままのところ」で変化した「涼くん」がはじき出された結果、唐突にプロポーズを受けることになってしまう、という構図が理解できます。
 
 
 
「突合」とは、字の通り突き合わせです。「涼くん」と「わたし」が突き合わされた結果、「わたし」は結婚することになります。前向きでも後ろ向きでもなく、ニュートラルに。目に見えた変化を彼女は起こしていませんが、「突合」は同じ数値でなければなりません。「涼くん」と同値になることが必要で、もしかしたら彼女も変化していたのかもしれません。変化とは、自覚的でないからこそ振り返って気づくことができるものです。
どうしてあのときのわたしといまのわたしが時間的に繋がっているのか、こうして思い返すと、本当に不思議な気持ちになる。同じ人間だろうか、同じ人間らしい。
 物語前半からの抜粋です。
彼女自身も、もしかしたらそう感じているのかもしれません。



「突合」を正しい訳とするならば、誤訳を担うのは「門脇くん」です。誘いを何度も袖にしてきた彼との再会は、とても和やかなものです。「和解」、というにはアクセントが不足している気もしますが、そういった読みをしたくなる展開です。
 
 
 
また、これは考え過ぎかもしれませんが、ていうか考え過ぎだと思うんですけど、「突合」と「嫁ごう」をかけているのだとしたらこれはもう相当に緻密で、しかもクスッと笑えてしまう無敵の短編かもしれません。まぁ、読みは人それぞれってことで……。
 
 
 
こういった精緻な「重なり」が物語をつくり、また本作最大の魅力だとも言えます。


​

ヘテロフォニー的「重なり」




​「重なり」と聞くと、中高吹奏楽部の僕は「音の重なり=合唱・合奏」を連想してしまうのですが、ミハイル・バフチンは『ドストエフスキーの詩学』において、登場人物たちの独立した人格が「対話」をすることで小説独特な表現を可能にしている、という旨の指摘を「ポリフォニー(多声音楽)」という語を用いて論じています。
 
 
 
彼はトルストイを引き合いに出し、ドストエフスキーがポリフォニー的であるならばトルストイはモノフォニー(単声音楽)的であるといい、その単声とはつまりトルストイ本人であるため、自身の人格に反対する人格をおよそ自己完成から程遠い人物として描く、として批判しています。
 
 
 
この考えに照らしてみると、『Slip and Slips』は「対話」によって成立しているとは言い難いです。しかしながら小説独特の表現には成功していると言わざるを得ない。他の芸術媒体では得られないような面白さが、面白さの方から襲ってくるような感覚が確かにあるためです。
 
 
 
極めてモノフォニー的でありながらその「ズレ」を複雑化させることによって、自らの声を重ねるように織りなす音楽を「ヘテロフォニー」と呼びます。リズムやテンポをほんの少しずらすことで偶発的なポリフォニーを生むものを指し、本作の「ズレ」の構造をもってみると、この表現はまことにしっくりときます。
 
 
 
もっと言うのであれば、この「ズレ」の構図は非常に緻密であることが要求されるため、より多くのファクターをより複雑に組み合わせることで、全体的な響きの厚みを増すことも可能であるように思います。1年で構成された物語の半分、秋冬での展開であったり、異性の登場人物(バスケ少年の母を連想させるなら尚更)が関わってくればそれは達せられるのかもしれませんが、それはひとつの視点においてのみの話です。『Slip and Slips』がほとんど完成されている文学であることに疑いはありません。


​

タイトルについて




いち読者が解題の真似事をするのもどうかと思いますが、『Slip and Slips』というタイトルについて自分なりに考えてみました。
 
単に「ズレ」を言いたいのであれば「Slips」で事足りるはずで、わざわざ2語に分ける必要はありません。また「伝票」という本来の用法が出てくるのも少し考えにくい、となった時に、単数形と複数形であることに立ち戻ってみました。
 
 
 
前者は「わたし」のズレ、後者は「周囲(世界)」のズレ。つまり
 
(my) Slip and (their) Slips
 
とすると、また違った風景が見えてきます。
 
 
 
「わたし」の知らないところで変わっていた「涼くん」が、もしかしたら感じていたかもしれない「わたし」の変化。「門脇くん」を通して、バスケ少年たちを通して、彼女は知らぬ間に変化することができており、それがプロポーズへとつながっていた。そう読むと、この短編は救済の物語なのかもしれません。
 
 
 
最終盤、「わたし」が後輩の子にあの会計システムについて教える場面回想が挿入されます。「わたし」のいうことに相槌をうちメモをとる後輩。
「はい、はい。……ゆうのさん、あの」
「なに?」
「いえ、ありがとうございます。和解じゃなくて、突合ですね。ズレじゃなくて、伝票」
「わたし」はこの後輩に変わる前の自分を見ていた、と解せば、彼女は自分の変化を振り返ることができるようになっていたということが示されます。


そう取らず、生きづらい「わたし」の物語、とも取れるというのが直嶋さんの強みです。こうした読者を「信頼する」書き方というのは僕が長いこと憧れているものなので、非常に勉強にもなりました。読み筋を固定しないという匙加減は、本当に難しいのです。


​

なぜ「文学」をやるのか




はじめに書いた通り、書評を書くにあたり、何を書いたものやら思案しました。なぜ書き方がわからないのかわからないままだったのですが、書き終えたいま、それが少し思い当たるような気がしています。
 
 
 
それは『Slip and Slips』が、いや、「上陸」が、ラドンがとても「文学」しているからなのではないでしょうか。
先ごろ習作派のTwitterでもRTさせていただきましたが、「上陸」の編集後記が公開されています。

文フリ東京お疲れさまでした。最後に今回の「上陸」から、小説よりも感動的だとメンバーに人気の『編集後記』を抜粋しておきます。ありがとうございました。半年後にまたお会いしましょう。 pic.twitter.com/uYd2YzLesw

— ラドン (@maisonderadon) November 23, 2020
​僭越ながら我々こそ現代の真の純文学同人(のひとつ)であると、自負をもってこの小説集を世に送る。
編集・宮元さんの文章です。はっとさせられる。尊大に取られかねないこの文が、小説集の新しさ、強度、若々しさを以て補完されています。蝋燭の外炎に微かに揺れる青さがもっとも熱を伴っているように、静かな慟哭を伺わせるような筆致。それはこの編集後記にも、いずれの短編にも垣間見ることができます。
 
 
 
「この二項に引き裂かれ、部屋の宙で震えながら浮遊」することの苦しさ。それはきっと、常にそれを考え続けることのみで言祝がれるものです。決して時流に媚びることなく、しかしいたずらに脱俗を衒うのでもなく、そうすることが「文学」だと、改めて感じました。
 
 
 
習作派の立ち上げの際、岐阜のアパートの一室でりんご剥きながらああだこうだやっていたあの日。文学に何を求めるのか、誰のために書くのか。そのやりとりが克明に思い出され、書いては出し、また書いては売り、というルーチンに倦み忘れそうになっていた矜恃を甦らせてくれた本でした。
 
 
 
急に自分語りのようになって恐縮ですが、嘘偽りのない感想です。最近はすぐ感傷的になっていかんと思うのですが、おじさんなのでしょうがないかもしれませんね。ぜひ皆様も読んでみてください。他の感想も聞いてみたくなる短編集です。
 
 
 
我々も負けていられません。また文フリでラドンに会えることを楽しみにしつつ(すっかりファンになってしまった)、私たちも「文学」していこうと思います。
 


​
 
 
それでは、編集会議があるのでこの辺で。


​久湊有起(習作派編集部)
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同人書評:【永久小説機関】より『NEWS PEPPER』

11/26/2020

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​文学フリマ購入本レビュー、第二回目は永久小説機関・古鳥にわかさんの『NEWS PEPPER』について
​書いていこうと思います。
 
当日のブースがお隣だったというご縁から終盤に買わせていただき、先日古鳥さんからは私たちの『筆の海』第一号について感想ツイートをいただきました。
しっかりと読み込んでご感想をいただき、大変感謝しております。また文フリでお目にかかれる日を楽しみにしております。
 
 
 
さて、今回レビューする『NEWS PEPPER』はフリーペーパーです。購入させていただいたのは『AQED』という冊子で、どちらも大変楽しく読ませていただきましたが、著者一覧に古鳥さんのお名前がなかったこと(恐らく別名義で書かれている?)、一番印象に残ったのが『NEWS PEPPER』だったことから、勝手ながらこちらについて書こうと決めさせていただきました。
画像




というのもこの『NEWS PEPPER』、かなりのくせ者なのです。
 
 
 
私たちが作品を読むとき、「この部分は誰々のオマージュだな」とか、「ここはだいたいこういうことだろう」なんてことを考えながら読んだり、そうでなくても何かしら自分との共通点を見つけ出しながら進めていくものだと思います。
仮に全く新しいジャンルの文章を読んだときでさえ(最近では村田沙耶香さん『コンビニ人間』などでしょうか)、その展開の珍しさに高揚しながらも「納得感」のようなものを見つけ、それをきっかけに没入していくことで面白さを発見します。
 
 
 
例えば、ストーリーの中で誰かが銃で撃たれたとします。一人称視点でその人物を描写するとき、よく使われている表現の一つに、
 
「痛みはない。ただ衝撃があり、腹部が熱かった」
 
のようなものがあります。


現代日本で生活している人で銃で撃たれたことのある人はだいぶ限られていますので、この描写に「たしかに!わかるわ〜熱いんだよね!!痛いとかじゃなくってさ!!」なんて感想を抱く人は少ないと推測できます。
しかしながらこの表現には妙な納得感がありますよね。紙で指を切ったときに感じる鋭い痛みと、熱せられた鍋に触れてしまったときの反射反応が似ていることだったり、その他色々な《身近な経験》から、私たちは経験していないことを想像し、それにリアリティを見出します。だからこそ小説その他の芸術には「想像力」が求められるのであり、「想像力」に感銘を受けるのだと思います。
 
 
 
しかし『NEWS PEPPER』における「納得感」は一切と言っていいほど存在しません。


 
主人公である佐藤マルクス三世は休日の朝、新聞の訪問販売を受けます。訪問者の頭はカマキリであり、しかし佐藤は驚くこともしません。なぜなら前日には六法全書の頭からの勧誘を受け、その前日には鯖頭から新聞を買わされていたからです。加えて買わされた「新聞」はおよそ新聞ではなく、一面に「勝訴」と書かれたノートであったりアジの開きであったりと全く要領を得ません。結局佐藤はカマキリ頭からも新聞を取ってしまいます。カマキリ頭の「新聞」とは一体なんなのか……。
 
 
 
といった筋書きなのですが、この筋以外に独特な表現や明らかに不要な文が数多くあり、作品の異様性を底上げしています。
加えて後述しますが、冒頭の一文の表現は異彩を放っており、この熟語の存在意義を僕(久湊)は最後まで解釈できませんでした。これに関しては完全に白旗です。もし著者の古鳥さんがこのレビューをお読みになる機会があり、お気兼ねなければ教えていただきたいくらいです。
 
 
 
※ 毎回ながらネタバレを多分に含む書評となりますので、未読の方は読後にお読みいただくことを推奨します。



​

『オチ』の存在が全てを裏切る



​

​前述の通り、『NEWS PEPPER』はかなり異質な構成をしており、それだけで一読の価値はあるのですが、
強いて近しいジャンルを挙げるのであれば、いくつか思いつきます。
それに沿って『NEWS PEPPER』の読み解きを実践していこうと思いますが、
その最大の障害となったのが『オチ』の存在でした。
 
 
 
いわゆる「物語」には起承転結であったり序破急であったり、呼び名は違えど展開に相当するものが存在し、それによってテンポやリズムが生まれます。これが読みやすさや面白みに直結しやすいものであるからこそ体系化されていると考えることができ、多くの作品がこれに則っています。
 
 
 
しかしながらこういった構成を廃した文学も確かに存在しています。現在は100文字で完結するマイクロノベルというジャンルも存在しますし、同人界隈では「やおい(山なしオチなし意味なし)」という造語も存在します。
(ちなみに「やおい」は当初女性向けコンテンツの自虐的なジャンル定義でしたが、最近では幅広く肯定的に用いられています。)
 


では『NEWS PEPPER』は「やおい」なのか、という問いについては、即座に否定することができます。
淡々と理性的に展開される(非)日常の風景、という面では「やおい」的要素を満たしていると言えます。あらゐけいいち氏の漫画『日常』のような到底起こり得ない展開が羅列されるような作風もその一つと解釈できます。
 
 
 
しかし『日常』において『オチ』と呼べるものはあまり見受けられません。ギャグ漫画として非常に秀逸な作品ですが「これが『オチ』です」と断言できるものがないシュールな世界観で笑いを引き込む作りになっていると考えられます。詳しくは後述しますが、シュールさと『オチ』は親和性が低い、ないしは『オチ』もシュールでなくてはならない、という縛りがあるように感じられます。
 
 
 
しかし『NEWS PEPPER』の最終部分は、
 
紅茶に合うのだから、それは砂糖のようである。砂糖に違いない。カマキリと砂糖になんの関係があるのかと佐藤は思案した。砂糖はサトウキビやてん菜から作られるはずである。
その瞬間、佐藤は所謂砂糖と呼ばれるものが何だったのかを理解した。
ちょうど、お湯が沸く。佐藤はダージリンにその粒を溶かして一気に飲んだ。
 
「……これ、塩だ」


​となっています。
 
 
 
『オチ』が存在しています。キッチンでよくある小さな事件です。シュールといえばそうかもしれませんが、シュールの言葉の定義が広すぎるため確かではありません。『日常』の『オチ』で使われるような、背中から羽が生えたり学校が前触れなく爆発したりと言った「非日常」性は見られません。そのためには塩ではなく「青酸カリ」や「小惑星」である必要があり、意味がわかってはいけないのです。
 
 
 
逆説的に考えると、『NEWS PEPPER』は『オチ』以外が非日常、『オチ』のみが日常、という構成になっていると見ることもできるかもしれませんが、その目的のためには「その瞬間〜理解した」の文章が邪魔なように感じます。直前の佐藤と砂糖が連呼される流れから「さとう」にまつわる「理解」であることが推測されますが、ここで掛け言葉のような常識的な構成を挟んでしまうと「塩」のシュールさが半減してしまうことは明白です。
加えて「理解」することはシュールさの敵であり、あえて「理解」という単語を使う説明ができません。
 
 
 
かなり緻密に描写がされている作風からも古鳥さんがよくよく計算されていることが見て取れるため、こういった無駄を許容するとは思えません。こういった観点から『オチ』の存在が解釈を阻んでくるという感想が、読後第一に僕の中で湧き上がってきました。
 
 
 
しかしながらせっかく読ませていただいた文章を「よくわからないな」と片付けてしまうのももったいない。なので、以下四つの観点から四回読み直してみた解釈を付させていただきます。


​

​

①「ナンセンス」としての読み





前述の通り『オチ』が許容される文学を軸に考えたとき、まず挙がったのはファンタジーという見方でしたが、これはすぐに否定できます。Wikipediaによると、
「ファンタジーに登場するような奇妙な生物、不思議な世界観、魔法、人語を喋る動物といったものは、それがなぜその作品世界に存在するかが論理的に説明される」
とあり、超自然、超現実的な存在の論理的説明が付される必要があるとしています。
 
 
 
また類似ジャンルとしてSF(サイエンスフィクション)がありますが、こちらも同様科学技術や物理法則を論理ルールとしてプロットベースが成り立っているため適切ではありません。『NEWS PEPPER』の登場人物は全編を通して論理的な説明とは無縁です。
 
 
 
そこで次に出てくるのが、カミュやカフカ、キャロルに代表されるナンセンスというジャンルです。
ナンセンス文学とは、その名の通り「意味をなさないこと」をユーモラスに捉える文学です。意味のあるものと無意味なものを合わせたり、意味のある言葉同志をつなげて無意味なものにする技法が用いられます。
 
 
 
「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」ともにファンタジーと誤認する傾向がありますが、ルイス・キャロルはナンセンス作家として著名です。
前述の定義によれば、説明なく登場する超自然的な人物・生物はファンタジーの住人ではないためです。
六法全書や鯖の頭をしたセールスマンはもちろん説明されることなく登場していますので、この区分けですとナンセンス的な読みをするのが最も適当ということになります。
 
 
 
しかし『NEWS PEPPER』をナンセンス的に読んでいくと、またもや壁に行き当たります。
 
 
 
ナンセンス文学の面白みというのは、「意味の存在しないところに意味を探し求めてしまう人間性」を利用しています。
同じ「虫」が出てくるナンセンスの代表作、カフカの『変身』にしても、ある朝突然に巨大な「虫」に変身していたグレゴール・ザムザという青年が虫になったことで家族から見放され、最後は孤独に死んでゆきますが、ここでいう「虫」とは何なのか?という考察は現代でも後を断ちません。
 
 
 
「カフカは表紙の挿絵に虫を描くなと注文をつけたらしい。つまり、実際は虫になってなどいなかったのではないか?」
「ドイツ語の虫を表すUngezieferの語源は『役に立たないもの』だ。文学に傾注していたカフカ自身が家族から疎まれていると感じ書いた自伝的小説なのでは?」
 
 
 
などと尤もらしい考察がいくつも存在し、そう言った意見を読むのもカフカの楽しみ方の一つであると僕は考えます。
しかし書かれていることのみを見れば、「グレゴールは虫になった」という一点だけなのです。そこには説明はなく、淡々と成り行きが書かれているのみです。それに対しああでもないこうでもないと想像を巡らすのは読者の仕事であって、そこに価値が見出されています。
 
 
 
小説家は、小説が手元を離れた後に「読み方」をコントロールすることはできません。「こう読んでほしい」と思って書きがちな小説だけに、材料だけ与え料理は客に任せるような書き方をすることは非常に勇気のいることだと思います。今でこそ不条理文学というジャンルがあるものの、そこを切り開いた作家は途方もない覚悟を以って臨んだことでしょう。
 
 
 
少し話が逸れてしまいましたが、カフカ然り、ナンセンスの作家の作風には共通点が存在します。それは「意味、文法、表音、文脈等何らかの形で理解可能である」ということです。
一見見慣れない単語が用いられている場合にも、多くは文法的に品詞が推定できたり、文脈的になんらかの意味を持つことが想定できたり、あるいは言葉遊びによって見慣れた単語が組み合わされていたりするのが常です。
 
 
 
つまり、言葉の上での「ナンセンス」は「意味のないもの」「馬鹿げたもの」を指すものの、ナンセンス文学が創造的であるためには知性的な厳密と方法とを必要とします。単なる出鱈目な文章、わけのわからない文章が必ずしもナンセンス文学となるわけではありません。
 
 
 
このことを達成するために、ナンセンス作家はおおよそにして三人称視点を用いたり、極めて理性的・常識的な一人称の語り部を起用するなどしてナンセンスなものの異常性を際立たせます。読者の常識的な尺度を代弁するフィルターとなるわけですね。「構造のおかしみ」を廃し、異常に最大限フォーカスすることで読者の理解を促し、想像を煽るわけです。
 
 
 
この点から見ると『NEWS PEPPER』の主人公佐藤マルクス三世は、およそ常識的な尺度を持ち合わせていません。カマキリが訪ねてきても会話をし、アジの干物や勝訴の文字で埋め尽くされたノートが投函されていても不平を言うでもありません。それどころか干物は食卓に並ぶし、ノートは壁に貼られてしまいます。
 
 
 
極めつけは以下2文です。

カマキリ頭は頭以外人間である。指は五本あるし、手首は肌色のようだ。靴もスーツも人間用である。人間用でないスーツを佐藤はテレビで見たことがない。部屋にテレビがないからである。
カマキリ頭は恭しくお辞儀をした。頭を下げたまま微動だにせず、立ち去ろうとしないので佐藤は扉を閉めた。そしてのぞき穴から覗いていると、カマキリ頭は廊下の欄干に手をかけたかと思うと、そのまま飛んでいってしまった。




カマキリ頭が日本語を喋っている時点で気にすべきではないかもしれませんが、頭以外人間の生物が羽なしで飛び去ると言う情景はなかなか想像できません。スーパーマン的に飛んだのでしょうか、しかし佐藤はその異常にも反応しませんでした。
 
 
 
およそ理性的でない主人公によって観測される異常な世界、という構造は、「構造のおかしみ」に面白さを求めるものであると推測されます。佐藤とグレゴールの間には大きな隔たりがあり、その溝は埋めようもありません。
 
 
 
もう一点、ナンセンスとの差異を挙げるならば、『オチ』の部分でも書いたような小さな関連性が随所に見られることです。砂糖と佐藤の掛け言葉であったり、六法全書からは勝訴のノート、鯖からアジの干物が届くと言う関連は「構造のおかしみ」こそあれ、ナンセンスにしては「近すぎ」ます。
人間の頭だけがカマキリ、という異常と比べると均衡が崩れており、意味(sense)を見出さないほうが難しくなっていると言えます。
 
 
 
このような観点から、ナンセンス文学ではないと僕は考えます。


​

②「シュルレアリスム」としての読み




ナンセンスの近隣のジャンルであると言えるシュルレアリスムではどうでしょうか。
 
 
先ほどから「シュール」という言葉を何度か使っていますが、現代日本における「シュール」は「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味合いで使われており、いわゆるシュルレアリスムとは似て非なるものです。
シュルレアリスムは本来的には「無意識の探究」を主眼としておこった芸術運動で、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』に端を発します。初期にはエリュアールに代表される自動記述が用いられ、薬物を使用したトランス状態での思考の描出など、「理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」を目的とするものです。
 
 
 
この定義からも明らかな通り、理性的にコントロールすることが求められる「ナンセンス」と異なり、「理性」をはじめとする先入観から限りなく遠ざかったものであると定義できます。では、ナンセンスではないと分かった『NEWS PAPPER』はシュルレアリスム文学なのでしょうか。
 
 
 
のちに出されるブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』には、


​
[……]その間違いは、紙の上にペンを走らせるがままにさせることで一般的に満足し、彼らのうちでその時起こっていることをほんの少しでも観察することのなかったこれらのテクストの大部分の作者たちの側からのとても大きな怠慢によるものなのだ――この二重化はところがよく考えられた記述のそれよりも把握するのが容易で考察するためにあたってより興味深いものなのである――[……]
(福田拓也:『エリュアールの自動記述』水声社、p48より引用)
 



とあります。
​当初のシュルレアリスムとは、「内部での議論の余地のない紋切り型の出現」を嫌ったブルトンらによってもたらされたものであり、極めてシニフィアン的と言えます。思いつく言葉をただ書き留めるにとどまる文学はシニフィエを黙殺します。なぜならシニフィエは否応なく「紋切り型」を呼び寄せ陳腐化させてしまうからです。
 
 
 
ナンセンスの持ち味である意味のないところに意味を見出すという行為は、シニフィエを黙殺するという点でシュルレアリスムと類似します。シニフィアンとシニフィエの繋がりを断絶し、シニフィアンのみの、形だけの世界を形成します。異なるのは「理性」の介在です。
 
 
 
「理性」とはすなわち「主体的観察」であり、周到な理性は「必然」を生みます。のちにシュルレアリスムの一部として現れるデペイズマンという考えは、この「必然」を嫌ったが故にもたらされたものと言えます。
 
 
 
「偶然による二つのものの接近・出会いによって現実の中に潜む超現実が露呈し不可思議(驚異)が出現する」と言い表されるデペイズマンはマグリットやエルンストなどに代表され、この「偶然性」による驚愕、というところに主軸が据えられています。
 
 
 
「現実の中の超現実」という表現は佐藤マルクス三世とカマキリ頭の邂逅と重ねて見ることができるかもしれません。販売員の訪問は偶然であるはずですし、本来主人公がツッコミを入れる部分を三人称視点の場合のように読者に委ねていると考えることは可能です。
 
 
 
しかしながら、根本においてシュルレアリスムは「理性」の存在を許しません。デペイズマン的な考えにおいても全ては「偶然」でなくてはならず、ここでも「構造のおかしみ」は否定されます。『NEWS PEPPER』は象徴的な超現実的できごとを描写しているというよりも、緻密に記述された理性的掌編であると言え、やはりシュルレアリスムの定義から外れます。
 
 
 
加えて、ナンセンスでは許容される現実との乖離する描写もいくつか存在します。
例えば、

[……]ただ、佐藤はカマキリ頭の目が複眼でなくて良かったと思った。半透明の目はどこを見ているのかよく分からなかったが、おそらく自分をじっと見ているのだろうと理解出来た。だからこそ、複眼に一斉に見つめられなくて安堵した。[……]
(まるで虫のようだ)
佐藤は思った。[……]



ご存知のように、カマキリは複眼を持つと知られている昆虫です。確かに人間でいう眉間の部分に三つの単眼も備えていますが、目立っているのは二つの大きな複眼です。ナンセンスの領域では事実と異なる無意味な描写とすることができますが、現実に根ざすシュルレアリスムでは完全に不要な表現です。



不要という意味においては、ブルーマウンテンとダージリンに付けられた「ジャマイカ産の」「インドの」という説明も不必要です。ジャマイカ産以外はブルーマウンテンと呼びませんし、産地を聞かれて答えているのですからダージリンだけで充分条件です。
 
 
 
そしてカマキリの頭を持つ人間のような生物を前にして「まるで虫のようだ」という感想を抱くのも現実感はありません。「まるで」の後には比喩がくるのが常識的用法であり、「虫」の使用はナンセンスの領分です。
 
 
 
もちろんこの文を以ってみても「構造のおかしみ」は遺憾なく発揮されています。カマキリ頭を眼前に目の構造がどうかということに言及しているくだらなさは間違いなく面白い要素です。しかしこと掌編全体を通してみたときの存在理由は、ナンセンスでもシュルレアリスムでも説明できません。



​

③パスカル的「狂気」としての読み





理解できないもの。それは狂気です。
人間が理解できないのは人間が狂気じみているからであり、狂気じみていない人間も別種の狂気から見ればやはり狂気じみているものです。
パスカルあらわした狂気とは、現在の狂気の意味合いよりももっと広く深いものだったのかもしれません。
 
 
 
『NEWS PEPPER』を狂気の文学として読んでみるのはどうでしょうか。現実とは離れた表現や矛盾、非常識な言動も、これでしたら強引に読み解くことができそうです。なんとなくですが、書き振りを見るに狂気をポジティブに捉えていそうな気もします(これは完全に主観ですが)。
 
 
 
パスカルを研究し西洋近代哲学の理性主義に批判的な光を当てた人物の一人にフーコーがいます。彼はパスカルの言う「別種の狂気」を理性だとし、「理性と狂気は相関的である、もしくは置き換えが可能である」「狂気は理性の諸形態の一部である」と言う言説をもたらしました。理性が狂気に内包されるのではなく、狂気が理性に内包されていると言うのです。
 
 
 
狂気と理性の相関という点に絞って考えみると、両者の間のなんらかの交通をカマキリ頭と佐藤の対話という形で表現しているとみることができそうです。「理性>狂気」という構図ですから、佐藤の一部分としてのカマキリ頭や、六法全書、鯖ということができ、また理性も狂気の諸相の一つという意味合いで佐藤自身も意味のない言い回しや矛盾という狂いを生じている、と捉えることもできます。
 
 
 
17世紀後半になると次第に理性は狂気を自らから切り離し、封印するようになる、とフーコーは言い、その発端となったのが哲学におけるデカルトの存在だったと言います。パスカルによって説かれ、デカルトによって分たれた狂気と理性の交通をフーコー的視点によって回復せしめた文学、という見方をすれば、一定の成果があるのかもしれません。
 
 
 
ようやく読み解けたか、と胸を撫で下ろして再読し、また壁が現れます。



​

「一周回って六階」のおかしみ





「構造のおかしみ」と作風を、少々乱暴ながらに狂気という切り口から結合することに成功したかに見えた書評(そう言えばこれは書評でした)ですが、ここに来て説明しきれない点がひとつあります。
 
 
 
冒頭の段落です。

「新聞……取って……頂けませんかァ」
 土曜日の翌朝三十一時八十三分、即ち日曜日の八時二十三分、佐藤マルクス三世はインターホンに反応して訪問者を出迎えたことを後悔した。ここは姫路県兵庫市の一角にあるマンションの一周回って六階である。
 
狂気を表すにあたり理解しにくい言い回しや現実的でない表現をするのは先述の通り許容されます。日時の言い換えにしても二十四時間制ならぬ六十分制をオーバーした書き方をしたとして「狂気」であれば済むし、姫路県標語市というベタな言い回しも「狂気」の守備範囲、現代日本のマンションの一室に王族のような名前の人物が住んでいるのは狂気というまでもなくこのご時世実際あり得る話です。
 
 
 
しかしこの「一周回って」という熟語がとにかく異彩を放っています。「誰が」一周回ったのか、「なぜ」一周回ると六階なのか、一周回らなかったら何階なのか。その全てが不明です。その前の言い換えや創作地名などとは、なんというか次元が違います。
 
 
 
存在することで強制的に意味不明にしている熟語であり、なければ意味は通ります。「意味なんか通らなくても狂気の小説なんだから問題ない」という反駁もあるかもしれませんが、全編を通して意味が全く通らない箇所はここだけであり、そもそも上記の狂気を補完する文学であるという役割が正しいとするならば、「狂気は理性の諸相の一つ」であるため、客観的に意味の通らない文章は何の意味もありません。
 
 
 
僕の日本語の取り方がおかしいのかもしれない、と思い数カ所切るところを変えてみたり、慣用句的な表現ではない可能性を視野に入れたりもしました。「一階から六階までで一周する急勾配の螺旋階段」というのが考えた中では一番しっくりきましたが、いざ計算してみると仰角168°という階段というよりは梯子のようなものが出来上がってしまい考えにくい結果となりました。(六階までの高さを15m、階段の直径2m、内径1mで計算)。
 
 
 
これだけ緻密に練られていそうな書き振りで、ここだけ理解不能というのは考えにくい。おそらく何か意味があるんでしょうが、僕にはわかりませんでした。前半で書いた白旗はこの部分です。もしご存知の方がご覧になったらぜひご教示いただきたいです。



​

「全くあたらしい文学」という整理





ここまであらゆる角度から適切な書評をしようと多面的に解釈をしてきましたが、どれも何か物足りない結果となってしまいました。
 
 
 
逃げるような形にはなってしまいますが、『NEWS PEPPER』はきっとあたらしい文学なんだと思います。あたらしいものにはあたらしいなりに、何か共通点を見つけようとするのが人間の好奇心であるというのは冒頭に書いた通りですが、
『NEWS PEPPER』は色々な「におい」のする作品だと言えます。
 
 
 
ナンセンスのような書き出し、シュルレアリスムのような登場人物、理性的で非常識な主人公。
真の狂気とは理性的なものだ、とは石田の言ですが、そのように色々な要素を取り揃えた「あたらしさ」があるように思いました。
 
 
 
重ね重ねになりますが、非常に楽しく読みました。
​巻末を見ると、何と一次創作は今回が初めてとのこと。今までは二次創作で長く執筆されていたようです。僕は二次創作の経験がないのでこの点で語れる口は持ち合わせていないのが残念ですが、すでに次の原稿にすでに着手されているみたいですので、次回も楽しみに待ちたいと思います。
できることならこのテイストが長編だとどうなるのかを見てみたいですね。危ういバランスが均衡するのか崩壊することが成功なのか……
 
 
 
 
 
長くなってしまいましたが、今回はここまで。
 
次回は文フリ大阪の購入本のレビューを(やっと)書きます。

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