文フリまであと一月を切り、習作派も緊張感があるんだかないんだか分らぬまま怒涛の〆切前へと突入しつつあります。 僕たち(石田・久湊)は小説のスタイルこそ正反対ですが、 「切羽詰まらないと本気が出ない」という致命的な欠点は共有してしまっているものですからいけません。 集団行動にはだいたいギリギリに(もしくは遅れて)参加するタイプでした。 とはいえ、創刊号から原稿を落とすわけにもいかないので、 自分に厳しくビシバシ執筆しております。 何ももたない僕たちだから。ところで、最近こんな本を読みました。 メディア論×日本文学史というのは流行りものというか、それこそ綺羅星のごとく居並ぶ領域なわけで、 若者むけの新書にしたって何をいまさら……と思われる方も多いかもしれません。 しかし、この帯はなかなか目を引くものがあります。 「文学は、『現実』も『人の心』も描けない」とは――。 「そのリアルは、文学だけが描くことができる」というコピーをひそかに準備していた僕にとって、これはわりと挑発的でした。 せっかくなので、そのポイントに絞って本書の内容をまとめてみます。 著者のさやわか氏は、日本人が文学を読もうとするとき、そこには次のような「錯覚」が染みついていると指摘します。それはすなわち、
錯覚1:「文学とは、人の心を描くものである」このうち1.については村上春樹の例が挙げられています。 村上春樹はそのデビュー後、「人間の心理が描けていない」という理由から文壇ではあまり評価されませんでした。一方、ふだん文芸誌などを読まない若者のあいだでは「僕たちの世代の心情を表現している」として受け入れられていった。世代ごとの感受性の差異こそあれど、ここには「文学は人の心を描くものだ」という錯覚がつねに底流しているとさやわか氏は指摘します(p.57)。 しかし、そもそも村上春樹が『風の歌を聴け』で群像新人賞を獲ってデビューしたとき、彼にたいする評価の力点は「心情をリアルに描けているか否か」とは別のところにありました。 たとえば選考委員のひとり、丸谷才一は、春樹がカート・ヴォネガットやリチャード・ブローティガンなどアメリカの作家の強い影響下にあることを認めながらも、しかしそうしたアメリカの作家たちに比べて心情表現が薄味なところに「日本的叙情」のあらわれを見出していました(pp.28-29)。 つまり丸谷は、「こいつ(春樹)はあんまり心情を描いてないけど、それがかえって日本的なのではないか」と分析したわけですね。これを無名新人の一作から見抜くあたりはさすがの炯眼といった感じがしますが、その後の受容ではそうした側面は忘れられ、春樹の評価は坪内逍遥以来の「小説は人情を描くもの」という言説に回収されてゆきます。 ※春樹はけっきょくのところ心理を「書かない」ことで「書いている」=人情小説じゃないか、という反論は可能ですが、論旨が混乱するのでひとまず措きます。 錯覚2:「文学とは、ありのままの現実を描くものである」これはいわゆる自然主義批判なので詳細は読んでいただくとして、ただ、さやわか氏は小説の原理的な問題についても言及しています。たとえば次の詩。 紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。 否定が幾度となく重ねられるところに理知的かつ求道者的な印象があって、谷川俊太郎という詩人の大きさを感じさせる作品です。 で、それはともかく、さやわか氏はここから「言葉による描写をどれほど重ねても、リンゴそのものに迫ることはできない」という結論を引き出します(p.84)。われわれが小説の「描写の正確さ」を話題にするとき、それは言葉による描写がほんとうの意味で「ありのまま」ではないという観点をカッコに入れて語らざるをえない。ここには錯覚が隠れているとさやわか氏は指摘します(p.88)。 小説がありのままを映していると「錯覚」させるのは、むしろ小説が「ありのまま」を超えて、読者の感情移入を可能にする様々な虚構性(仕組み)を持っているからだ――これがポイントということでしょうか。 それどころか、『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した村上龍などは、この「錯覚」を極めて効果的に用いていたとされています。『ブルー』では飲酒あり・セックスあり・ドラッグありの若者たちによる乱痴気騒ぎが記述されていますが、その描写はきわめてシンプル・即物的なものに留まっていました(酔った女性の吐瀉物について淡々と描写したりしています)。結果、その様子は「ありのまま」というよりもむしろぼんやりとした非現実的な世界の印象を与えるのであり、それがドラッグで酩酊した主人公の視点とシンクロしているというわけです(p.189)。なるほど。 そのほかにも、桜坂洋による『All You Need is Kill』や十文字青の『灰と幻想のグリムガル』、長月達平の『Re: ゼロから始める異世界生活』などの近年のライトノベルは、「リセット可能なゲーム」という虚構性を用いることで、逆にリセットすることのできない『死』を生々しく描く(そこにあるかのように錯覚させる)ことに成功しているとさやわか氏は指摘します(pp.224-234)。 結論……こうして見ると、さやわか氏は、文学が「現実」を描くことなどできない、と主張しているのではなく、「錯覚」に自覚的であることによって描くことのできるものがある、と説いているようにも思えます。だとするならば氏はきわめてまっとうに文学の効果について論じており、僕自身としても首肯できるところの少なくないものでした。 とはいえ、さやわか氏の指摘する錯覚2については議論の余地が大きく残されているようにも思います。作家の生命線といわれる「文体」について考えるならば、文学が「ありのまま」を描くことができないのではなくて、文学の描くものこそが「ありのまま」なのではないかと僕は思うからです。このあたりについてはじっくり考えを練っておきたい。 ところで、氏はあとがきで次のように書いています。 ずっと文学が好きだったが、なぜか文学のことを好きになればなるほど、それ以外のことについて書かねばならない気がして、そうしてきた。 わかる、わかるよその気持ち……。 (狭義の)文学が生き延びるためには「文学にしか描くことのできないもの」を書かねばならない、 と僕は思います。 多くの人に情報を伝達する手段として、演劇や映像、アニメ、マンガ、ゲームといった強力なライバルがおり、 文字・文章のことだけを考えたって、Twitterやブログのような新しい形態がどんどん生まれている。 そんななかで「わざわざ本を(買って)読む」ことの意味を作家が自覚しないで、どうして文学が生き延びられるでしょう。 また、(Vol.1でも書きましたが)文芸が担うべきものについてのそうした反省を自らに課すという点で、 僕は同人誌をつくるということに大きな意味を見出しています。 そろそろ編集会議の時間なので、今回はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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ブログを書け、と言われました。 ので、書いています。 初めからイヤイヤ書かされているような論調で申し訳ない限りなんですが、イヤかどうかと問われたら、まぁ、イヤですね。正直なところ。 まず、何を書けばいいのかわからない。石田には「こんな本がいいとか、こんな本を出したい、みたいなことがあれば」って言われてるんですが、そんなこと言われてもすぐには思いつきませんし、生来、そういう「外身」のコンテンツを考えるのって酷く苦手なんですよね。出来上がったものを見て、「あ、なんかいいな」「これはダサいな」と感じることはあっても、ゼロの状態から構想を練っていくのが不得手。じゃあ小説なんか書けるのか、って話になりそうですが、自分が書いてるものが小説として成立しているのかは甚だ疑わしいところです。 石田に言わせると、「小説は自由」なんだそうです。彼のプロフィールにも書いてありますよね。僕もマネゴトのように書き始めてから結構な時間が経ちますが、別段「小説を書こう」と思って書いているわけではありません。ただ、文章だけで勝負しようとすると、それが小説の体裁に近くなってしまうだけです。僕にもっと発想力とか構想力があったら、果たして全くべつの、新しいものが書けるのかもしれないですが、現状そこに甘んじている、というのが尤もなところです。 そんなのが嫌だったのか、ここ5年間くらいはずっとお芝居の台本に注力していました。『ガクブチ』という劇団をやっていて、その活動をメインにしておりました。お芝居の方向に傾いていったのにはそれなりに理由があるのですが、端的に言ってしまえば面白かったからです。何個か芝居をやって、そこそこ辛さみたいなものを感じましたが、達成感みたいなものはありました。 芝居の脚本は、小説に比べると不自由なんだと思います。セリフとト書きだけで伝えなくてはならないという点もそうですが、結局は役者が伝えるので、極めて間接的なデバイスだと言わざるをえません。だから、できることも限られているし(「彼は空を飛んだ」と書いても、彼は往々にして飛ぶことができない)、それをうまく補って書くことが求められます。 そういう書き方は、不自由であるがゆえに、書きやすかったりもします。 あなたが今海に放り込まれて、「なんでもしていいよ」と言われたら。 初めこそバシャバシャと水遊びすることもあるかもしれませんが、それ以降は大抵、疲れて浮いているだけになるでしょう。 でも、 「今から、あそこに見える島まで泳いで行ってください。できるだけ早く。あ、クロールは禁止です」 と言われたなら、そうはいきません。疲れたからといって休むこともできず、その通りにするでしょう。道中(海中?)、魚の群れを目撃したり、海賊に襲われたりするかもしれません。そういう想像をすることも容易です。そして、島に着いた暁には、もしくは着かなかったとしても、それは物語になるのではないでしょうか。 お芝居の不自由さは、そういった効果も孕んでいる。不自由さが動力となる場合もある、と僕は思っています。 このサークル、『習作派』で行われるのは、まさに「なんでもしていいよ」と言われながら海に突き落とされることです。ただ浮いているだけでは、決して売り物になんかならない。何かをしなくてはいけません。「なんでもしていいよ」は、「なんとかしろ」と同義でもあるのです。 5年ぶりに、小説を書いています。島へ行くのか、丘へ戻るのか。泳ぐのか、沈むのか、波に乗るのか。はたまた飛んだり、海面を歩いたりもできるかもしれない。それでも、いや、だからこそ、筆の海に溺れることのないようにしなくてはいけない。 そういう気持ちです。 習作派は「文学フリマへの出展」をとりあえずひとつの目標にしているわけなんですが、まだまだ経験が足りません。 というより、雑誌の作り方も即売会での売り方も、なーんにも知らないので、勉強がてら文フリ関連の情報をまとめていこうと思います。 文学フリマとは?(『文学フリマ公式サイト』から)書物という商品の形式を資本主義下で採用しながら、しかし商品的淘汰によって素人と玄人の不和を、言わば市場経済に委ねることから「文学」は免責されています。 繰り返しますが、ぼくは「経済的自立」に「文学」の全ての価値があると言っているのではありません。しかし大西巨人氏のように黙々とHPに「文学」を無償で発信していく覚悟がないなら、現実的に「文学」や「文学者」を存続せしめる具体的な悪あがき一つせずに「文壇」で「文学」を秘儀のまま存続させるのは不可能だと言っているだけです。 「文学」の価値についてはともかく、日本文学の歴史が(小規模出版としての)同人誌とともに歩んできたことは事実です。たとえば『新思潮』の芥川龍之介や『文藝時代』の横光利一・川端康成など、同人誌から出発して後に文壇の寵児となった人物は少なくありません。 文学史にその名を残す文豪たちが、経費の工面に奔走していたというのはなんだか不思議な気もします。 一方で、多くの人々の心を動かす小説というのは、(たとえ結果的に赤字であっても)そうした地に足のついた活動なくして生まれるものではないのかもしれません。それは社会における文学の役割についてのきびしい反省を経ることでもあるからです。 その意味で、作家にも経済的独立性(非―依存性)と芸術的尖鋭性のバランスをとるエディターシップが必要だということはできるでしょう。 ちなみに、又吉直樹さんの『火花』掲載で史上初の増刷を記録したという純文学雑誌『文學界』(文藝春秋刊)の編集部のメンバーは、全員『週刊文春』に在籍した経験をもつとか。興味深いエピソードです。 そろそろ編集会議の時間なので、今回はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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