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同人誌評:『風を掻き分けて』(蓮井遼)&『移ろい』(桜鬼)(下)

1/22/2018

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(※例によって長くなりすぎたため、上下編に記事を分割しています。蓮井遼さんの作品に関するレビューは(上)を御覧ください。)
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桜鬼(はなおに):『移ろい』
4つの掌編が収められており、掲載順に

『花咲み』
『海に沈む』
『此岸花』
『迷子の栞』


と題されています。
いずれも視覚的な描写に富み、登場人物たちの謎めいた会話、そしてしばしば現れるシニカルな語りは、一読すなわち新感覚派とダダイスムの作品群を思い起こさせるものでした。じっさいこの作者は梶井基次郎や中原中也、あるいは川端康成といった作家への愛着を表明していますから、そうした印象は桜鬼氏の研究が彼らの藝術の真髄をよく掴み得ているということの証左ともいうべきでしょう。個人的に出色だと思ったのが以下のくだり。
次の夜も空は抜けていた。待ち合わせにはいい空だ。私は一人当てもなく、天上高くに上弦の月、酒の零れ果てたグラス。一軒目は、カクテルの音とジャズの味。予告なく絞られた照明に談笑も自ずと静まった。シルバーグレイの奏者が眼を瞑る。首を絡めふくよかな肢体を抱く。壁の木目、柱の木目より僅かに明るい基調のコントラバスは、曲面にライトを浴びて浮かび、深く深く耽る。ギターもドラムも。私たちは彼らの外に居た。自身の存在が消失しているのか忘れているのか、薄闇に身を沈めアルコールに揺られる。七杯までと決めているのが、此処で七杯頼んでしまった。いつになく口は閉じていたのに。(『花咲み』pp.11-12)
リズミカルで歯切れが良いのですが、ずいぶん奇妙で不可思議でもある文章です。なにしろ、「待ち合わせ」にはいい空だ、と言っておきながら、次の瞬間には「当てもなく」街を歩いている。通常カクテル・グラスにはあふれるほど酒は注ぎませんから、零れ果てたグラス、というのもなんだかよくわからない。カクテルの音とジャズの味……これは誤字なのか?
​
もちろんそんなはずはありません。たとえば、酒の零れ果てたグラスというのは、グラスの縁に塩や砂糖をまぶした”スノー・スタイル”を、液体がこぼれた痕跡に見立てているのかもしれないし、あるいは酒が口の中へと零れ果てた=空になったグラスのことを指しているのかもしれない。あるいはシェーカーからカクテルが注がれる最後の一滴、そのみずみずしい一瞬を捉えた表現なのだとも解釈できる。

とはいえ、そのどれが正解かということはあまり問題ではなく、むしろ「カクテルの音とジャズの味」という言葉が表すように、多様なイメージと感覚とが渾然一体となった状態にあるということが重要なのだと思います。ちなみに、夜、音楽、そして酩酊は、いずれもニーチェが「ディオニュソス的(dionysishe)」とよんだ不定形で渾沌とした世界のあり方を象徴するものです。
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​DAda

そして、これは新感覚派のドグマでもあった「主客一如的認識論」にきわめて親和的なスタイルでもあるのです。
例へば、砂糖は甘い。従来の文藝では、この甘いと云ふことを、舌から一度頭に持つて行つて頭で「甘い」と書いた。ところが、今は舌で「甘い。」と書く。またこれまでは、眼と薔薇とを二つのものとして「私の眼は赤い薔薇を見た。」と書いたとすれば、新進作家は眼と薔薇とを一つにして、「私の眼が赤い薔薇だ。」と書く。理論的に説明しないと分らないかもしれないが、まあこんな風な表現の気持が、物の感じ方となり、生活のし方となるのである。(川端康成『新感覚的表現の理論的根拠――新進作家の新傾向解説』)
従来のやりかた、すなわち「甘さを舌から頭に持っていく」ないし「眼と薔薇とを二つのものとする」というのは、主客二元論に立脚した認知主義的態度のことでしょう。分かりやすくいえば、まず客観的な世界があって、それに対してそれぞれの個人が主観をもつようになる、という理解です。光線や音波として受容された世界は、いったん客観的で感情中立的な知覚「赤い薔薇」として現れ、その後で、「美しい」だとか「燃えるように赤い」だとか、あるいは、「他のものが眼に入らなくなるくらい圧倒的な存在感」といった主観が作り出される――そうした過程を指して川端は「一度頭に持っていく」と評したのでしょう。

​この原理に厳密に従うと、『花咲み』における記述「シルバーグレイの奏者が眼を瞑る」は、たとえば以下のようになります。「私はひとりのベーシストが目を瞑って演奏を始めるのを見た。その奏者の着ていたスーツがスポットライトを受けてシルバーグレイの光沢を放っており、それが強く印象に残った」と……。どうでしょう?
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新感覚派や、その理論的先駆となったドイツ表現主義は、こうした「客観的世界―主観的解釈」という二元論に疑いの眼を向けました。つまりわれわれの生のなかで立ち現れる景色には、つねにすでに感情やイメージの鎖が絡みついているのであって、そうした主観に先行する客観的認識など(少なくとも芸術的方法論のうえでは)ありえないというわけです。(こうした藝術の主観主義化についてはC.テイラーに関するブログでも触れたことがあります)

​先の例でいうならば、奏者の外見においてシルバーグレイという色彩が非常に際立っていると感じる〈主観〉と、実際にそのプレイヤーが瞑目してイントロを弾き始めた、という〈客観〉とが渾然一体となって現れてはじめて有効な表現となる。「シルバーグレイのスーツを着た奏者が……」と書いてしまっては、決定的に失われるものがあるのです。そもそも僕は「シルバーグレイ」がスーツの色であると前提して話を進めてきましたが、そこに根拠はありません。ネクタイの色でもありうるし、白髪のことだとみなす解釈も充分に成立します。あくまで「シルバーグレイの奏者」なのですから。

春の夜の夢

といっても、ここで「決定的に失われるもの」が何であるかを言語によって指示することはできません。それは非言語的なイメージの領域に属しており、純粋に主観的な「感覚」のあり方だからです。あるいは「詩情」と呼ぶべきかもしれません。いずれにせよ、それは言語藝術にとって最も致命的で、かつ最も魅力的な限界だといえる。僕が『花咲み』を面白いと思うのは、それが言語に対する強い不信に支えられているからです。
文章には文法がある。語法や文章法がある。これは、お互の思想感情を言葉で了解するための規約である。規約は没個性的である。非主観的である。(...)そして、私達の頭の中の想念は、この規約通りに浮びはしない。もつと直観的に、雑然と無秩序に、豊饒に浮ぶものである。自由聯想に近いものである(川端康成、前掲書)
自由連想とは、フロイト派精神分析がしばしば神経症治療に用いた手法のことですが、与えられた言葉にたいして、いっさいの目的地も、いっさいのルールもなく、ただ心に浮かんだことだけを自由に答えてゆく問答のことです。その雑然として無秩序な、きわめて非論理的、非明晰的、そして非客観的な展開こそ、われわれの想念の現実だと川端は言う――。
 
さて、最初の問題へと立ち返りましょう。僕は「待ち合わせ」によい空だといいながら「当てもなく」街をさまよう『花咲み』の主人公は奇妙だ、といいました。しかし、いまやこの「謎」はあたらしい相貌を明らかにしています。会おうとしても会えず、むしろ当てのない彷徨のなかではじめて会うことのできる存在――そうした非言語的な世界の○○○をこそ、「私」は待っているのではないか……もっとも、これは僕の無責任で放埒な自由連想の結果でしかありません。
​​本当のところは、ぜひ手にとって確かめてみてください。
すっかり堪能したので、今夜はここまで。
それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
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同人誌評:『風を掻き分けて』(蓮井遼)&『移ろい』(桜鬼)(上)

1/22/2018

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文フリ同人誌レビュー、今回は蓮井遼さんと、サークル「波の寄る辺」の桜鬼さんの作品を扱います。どちらも近現代の作家をよく読まれているんだとか。僕(石田)としても読み応えがありました。
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蓮井遼:
『詩、2017』
『風を掻き分けて』
『寒い時の夢』

 
この作者に特徴的なことは、ほとんどの作品において、「死と生」というモティーフが登場することでしょう。作中の人物たちはみなそれぞれに「死」について思考し、その引力に深く魅了されてゆくのですが、一方でそこには「生」にたいするシンパシーの残響もまた鳴っている。
 
それは自殺志願者の心理(『Hanging Garden』)のような形で直接的に描かれる場合もありますが、どちらかといえば、より大きな――超越者や輪廻、生態系といった――文脈と関係づけられることで既存の死生観がいったん「解体」させられ、そのうえで新しい小説的意味の探究がなされてゆくという構造が多いようにも思われます。それは生―滅という連鎖が方法論にまで貫徹されているのだともいえますし、つねに主体のおかれた「環境」へと眼をむけかえす”エコロジー小説”の試みなのだともいえる。
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主体のエコロジー

“エコロジー小説”と書いたところで、ただちに僕の脳裏に浮かんだのは手塚治虫のライフ・ワークたる『火の鳥』です。かの作品においては、古代日本から未来の宇宙空間まで、さまざまな時代のさまざまな場所で、これまたさまざまな主体(動物や宇宙生物をふくむ)たちが生まれ、活動し、そして死んでゆくのですが、その結果、読者の意識は、生々流転=物語をつつみこむ「環境」としての地球・宇宙へと向かわざるを得ないようになっている。

じっさい、蓮井氏のあつかう舞台設定の「多彩さ」についても(掌編集という本の性質を考えてなお)注目すべきものがあります。先に書いた自殺志願者の「末期の眼」だけでなく、老人と子供の対話や、神話、ロー・ファンタジー、近代的兵士の葛藤など……主題の自在な変奏のうちに作家自身の誠実な問題意識が立ち現れるという点では、あるいは芭蕉の記した「不易流行」の精神にも通ずるとすらいえるかもしれない。大作をひとつひとつ物しながら階段を昇るように成長してゆく総合的知性があるとすれば、それとは反対に、絶えざる変化のうちに恒久的なものを見出そうとする分析的観察もまた、ひとつの文学的想像力のあり方だと言ってよいでしょう。(むろんそれらは両立するものですが)

ちいさな死

やや抽象的になってきたので、作品そのものに眼を向けてみましょう。『風を掻き分けて』という掌編について。
A5用紙にして5頁ほどの、このごくごく簡潔な物語において、主人公は「新天地での適応」という課題に晒されています。飛行機の航路の真下(伊丹あたりでしょうか)にある部屋へと引っ越してきた会社員の主人公は、その音を聴きながらふと「あの飛行機に乗ってゆけたら」と考える。
 
それはおそらく、たんなる転勤のストレスからの逃避欲求にとどまるものではない。
​それまでとは根本的に異なる価値観に馴致しきってしまうこと、自己を文脈に完全に埋没させてしまうことへの不安が、彼をして当の文脈そのものからの離脱を憧れしめている。つけっぱなしのテレビから流れてくる音楽に興味を惹かれ、一時的にはそこに没頭してもみるのですが、その音も、飛行機の轟音によって否応なくかき消されてしまう。彼は「異郷にひとり投げ出されたままの自己」へと引き戻される。
​
とはいえ、彼はすぐに行動を起こすわけではありません。入社してからの経験と歳月が、彼に踏みとどまる力を与えていた。彼は新環境への違和を、自分にとっての「学習」の余地ないし「成熟」の可能性として捉えるだけの余裕があります。積極的におのれを変えてゆくという道もあるのではないか、就職したばかりのころの自分もそうだったではないか……?しかしながら、選択肢を吟味するゆとりも、判断についての確信も得られないなかで、ただ行動ばかりを迫られるのが、現代人であり組織人である者の哀しい宿命です。彼は決断するよりむしろ迷い、なかば自暴自棄になっていると語られる。
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こわくなんかなくない

そうしたとき、主人公の拠りどころとなるのは「格闘技の試合」を見ることです。
ある実用書に勇気が示される時は必ず恐怖を伴っていることが書かれてあって確かに頷けることだと彼は思った。だからこそ、その勇気が示される試合を見ることは彼にとって重要なことだった。(p.3)
実際に自分が当事者となって、体格の大きいものからの攻撃を受けてなほ、力を振り絞って反撃できるか考えると、とても自分にはそんなことはできないのではないかと思った。だからこそ、負けはしたがこの挑戦者の闘う姿勢が彼の記憶に強く残ることになった。(p.4)
これらの文章はなかなか興味深い。つまり、彼が格闘技の試合を観るとき、それはかならずしも格闘家たちの「勇気」を見たいがためだけにするのではない。むしろ、「勇気」が示されるときに必然的に随伴する「恐怖」の手触りをこそ、彼は求めている。その手触りがリアルであればあるほど、彼は選手たちの心理とより強く同調することができ、闘いの勇気を自らに引き受けることも可能になる。逆に言えば、勇気すらもけっして恐怖を消滅させることはない。
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蝶のように、蜂のように

この――「恐怖」を探り当てるメルクマールとしての「勇気」という――考え方は、氏がくりかえし扱っているテーマ「死と生」とも決して無縁ではないように思われます。
ここでいう「勇気」が、行動によって環境からのフィードバックに身を晒すことであるとするならば、それはおのれの従来の価値観を自明視することをやめ、その正当性を経験の審判に委ねるということでもある。だからこそ勇気は必然的に恐怖を伴う。それは絶対性の喪失であり、すべてが不確実性へと退却してゆくことの不安、つまり一種の死の恐怖なのです。

​あるいはこのように言うこともできる――われわれは、自己の生が〈生きるに値する〉という感覚を、生の現実からいきなり引き出すことは難しい。むしろそれが死によって規定されているという不可避の事実から出発するほうが、〈なんのために生きるのか〉という問題を扱ううえではイメージしやすいのではないか、と。「自分はいつか死ぬ」というテーゼを立て、そこに順接「だからこそ」か、逆接「それでもなお」かを続けたとき、はじめて「これこれこのように生きる」という判断が「意味」を帯びてくる。死への恐怖が根深いものであればあるほど、生に対する真剣さも弥増しに増す……操作不可能なものの操作不可能性を認めたところから始まる認識を、われわれは「覚悟(Entschlossenheit)」などと呼んだりしますが、それは叩きのめされ時間切れになってしまう恐怖に直面しながら、「だからこそ/それでもなお」一歩引いて守りを固めるか「だからこそ/それでもなお」一歩進み出て反撃を加えるかの決断を迫られるボクシング・チャレンジャーの「勇気」ととてもよく似ています。

世界の回復

こう書いてくるとやたらに悲壮な小説であるかのように見えますが、しかしこの作者はペシミストではありません。
「それでもなお」新天地に踏みとどまり、そこでの暮らしに慣れることを選んだ主人公は、ふとしたことからいつも見上げていた飛行機に乗って実家に帰省することになります。空の旅は思ったより到着が早く、誰もいない家で彼は自分が被った変化について思いを馳せる。
そのような体験をしたのち、自分が変わっていくのか行動を振り返ってみるのだが、根は変わっていない気がした。適応とは、その場での対応する変化であって人自体を丸ごと変えていくものではないのだろう。しばらくすると、玄関の閉まる音がして、彼は家の階段を降りた。皆が帰って来たのだ。(p.6)
ひとたび勇気を出して、環境に対して自らをひらいたからといって、過去がすべて無に帰すわけではない。勇気が限りなく死に近づくことだとしても、究極においてそれはやはり生の営みなのです。変わるものもあれば、変わらないものもある――むしろ世界がそのようにあるという事実だけは、いつまでも決して変わらずにあなたの帰省を迎えてくれることだろう……読み終えたときの味わいはとても爽やかです。
(下)に続く
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