(※例によって長くなりすぎたため、上下編に記事を分割しています。蓮井遼さんの作品に関するレビューは(上)を御覧ください。) 桜鬼(はなおに):『移ろい』 4つの掌編が収められており、掲載順に 『花咲み』 『海に沈む』 『此岸花』 『迷子の栞』 と題されています。 いずれも視覚的な描写に富み、登場人物たちの謎めいた会話、そしてしばしば現れるシニカルな語りは、一読すなわち新感覚派とダダイスムの作品群を思い起こさせるものでした。じっさいこの作者は梶井基次郎や中原中也、あるいは川端康成といった作家への愛着を表明していますから、そうした印象は桜鬼氏の研究が彼らの藝術の真髄をよく掴み得ているということの証左ともいうべきでしょう。個人的に出色だと思ったのが以下のくだり。 次の夜も空は抜けていた。待ち合わせにはいい空だ。私は一人当てもなく、天上高くに上弦の月、酒の零れ果てたグラス。一軒目は、カクテルの音とジャズの味。予告なく絞られた照明に談笑も自ずと静まった。シルバーグレイの奏者が眼を瞑る。首を絡めふくよかな肢体を抱く。壁の木目、柱の木目より僅かに明るい基調のコントラバスは、曲面にライトを浴びて浮かび、深く深く耽る。ギターもドラムも。私たちは彼らの外に居た。自身の存在が消失しているのか忘れているのか、薄闇に身を沈めアルコールに揺られる。七杯までと決めているのが、此処で七杯頼んでしまった。いつになく口は閉じていたのに。(『花咲み』pp.11-12) リズミカルで歯切れが良いのですが、ずいぶん奇妙で不可思議でもある文章です。なにしろ、「待ち合わせ」にはいい空だ、と言っておきながら、次の瞬間には「当てもなく」街を歩いている。通常カクテル・グラスにはあふれるほど酒は注ぎませんから、零れ果てたグラス、というのもなんだかよくわからない。カクテルの音とジャズの味……これは誤字なのか? もちろんそんなはずはありません。たとえば、酒の零れ果てたグラスというのは、グラスの縁に塩や砂糖をまぶした”スノー・スタイル”を、液体がこぼれた痕跡に見立てているのかもしれないし、あるいは酒が口の中へと零れ果てた=空になったグラスのことを指しているのかもしれない。あるいはシェーカーからカクテルが注がれる最後の一滴、そのみずみずしい一瞬を捉えた表現なのだとも解釈できる。 とはいえ、そのどれが正解かということはあまり問題ではなく、むしろ「カクテルの音とジャズの味」という言葉が表すように、多様なイメージと感覚とが渾然一体となった状態にあるということが重要なのだと思います。ちなみに、夜、音楽、そして酩酊は、いずれもニーチェが「ディオニュソス的(dionysishe)」とよんだ不定形で渾沌とした世界のあり方を象徴するものです。 DAdaそして、これは新感覚派のドグマでもあった「主客一如的認識論」にきわめて親和的なスタイルでもあるのです。 例へば、砂糖は甘い。従来の文藝では、この甘いと云ふことを、舌から一度頭に持つて行つて頭で「甘い」と書いた。ところが、今は舌で「甘い。」と書く。またこれまでは、眼と薔薇とを二つのものとして「私の眼は赤い薔薇を見た。」と書いたとすれば、新進作家は眼と薔薇とを一つにして、「私の眼が赤い薔薇だ。」と書く。理論的に説明しないと分らないかもしれないが、まあこんな風な表現の気持が、物の感じ方となり、生活のし方となるのである。(川端康成『新感覚的表現の理論的根拠――新進作家の新傾向解説』) 従来のやりかた、すなわち「甘さを舌から頭に持っていく」ないし「眼と薔薇とを二つのものとする」というのは、主客二元論に立脚した認知主義的態度のことでしょう。分かりやすくいえば、まず客観的な世界があって、それに対してそれぞれの個人が主観をもつようになる、という理解です。光線や音波として受容された世界は、いったん客観的で感情中立的な知覚「赤い薔薇」として現れ、その後で、「美しい」だとか「燃えるように赤い」だとか、あるいは、「他のものが眼に入らなくなるくらい圧倒的な存在感」といった主観が作り出される――そうした過程を指して川端は「一度頭に持っていく」と評したのでしょう。 この原理に厳密に従うと、『花咲み』における記述「シルバーグレイの奏者が眼を瞑る」は、たとえば以下のようになります。「私はひとりのベーシストが目を瞑って演奏を始めるのを見た。その奏者の着ていたスーツがスポットライトを受けてシルバーグレイの光沢を放っており、それが強く印象に残った」と……。どうでしょう? 新感覚派や、その理論的先駆となったドイツ表現主義は、こうした「客観的世界―主観的解釈」という二元論に疑いの眼を向けました。つまりわれわれの生のなかで立ち現れる景色には、つねにすでに感情やイメージの鎖が絡みついているのであって、そうした主観に先行する客観的認識など(少なくとも芸術的方法論のうえでは)ありえないというわけです。(こうした藝術の主観主義化についてはC.テイラーに関するブログでも触れたことがあります) 先の例でいうならば、奏者の外見においてシルバーグレイという色彩が非常に際立っていると感じる〈主観〉と、実際にそのプレイヤーが瞑目してイントロを弾き始めた、という〈客観〉とが渾然一体となって現れてはじめて有効な表現となる。「シルバーグレイのスーツを着た奏者が……」と書いてしまっては、決定的に失われるものがあるのです。そもそも僕は「シルバーグレイ」がスーツの色であると前提して話を進めてきましたが、そこに根拠はありません。ネクタイの色でもありうるし、白髪のことだとみなす解釈も充分に成立します。あくまで「シルバーグレイの奏者」なのですから。 春の夜の夢といっても、ここで「決定的に失われるもの」が何であるかを言語によって指示することはできません。それは非言語的なイメージの領域に属しており、純粋に主観的な「感覚」のあり方だからです。あるいは「詩情」と呼ぶべきかもしれません。いずれにせよ、それは言語藝術にとって最も致命的で、かつ最も魅力的な限界だといえる。僕が『花咲み』を面白いと思うのは、それが言語に対する強い不信に支えられているからです。 文章には文法がある。語法や文章法がある。これは、お互の思想感情を言葉で了解するための規約である。規約は没個性的である。非主観的である。(...)そして、私達の頭の中の想念は、この規約通りに浮びはしない。もつと直観的に、雑然と無秩序に、豊饒に浮ぶものである。自由聯想に近いものである(川端康成、前掲書) 自由連想とは、フロイト派精神分析がしばしば神経症治療に用いた手法のことですが、与えられた言葉にたいして、いっさいの目的地も、いっさいのルールもなく、ただ心に浮かんだことだけを自由に答えてゆく問答のことです。その雑然として無秩序な、きわめて非論理的、非明晰的、そして非客観的な展開こそ、われわれの想念の現実だと川端は言う――。 さて、最初の問題へと立ち返りましょう。僕は「待ち合わせ」によい空だといいながら「当てもなく」街をさまよう『花咲み』の主人公は奇妙だ、といいました。しかし、いまやこの「謎」はあたらしい相貌を明らかにしています。会おうとしても会えず、むしろ当てのない彷徨のなかではじめて会うことのできる存在――そうした非言語的な世界の○○○をこそ、「私」は待っているのではないか……もっとも、これは僕の無責任で放埒な自由連想の結果でしかありません。 本当のところは、ぜひ手にとって確かめてみてください。 すっかり堪能したので、今夜はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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