先日の第二十三回文学フリマ東京で、お隣のブースに出展されていた宏井真希さんの作品集です。 僕(石田)は文フリのブースが発表になった当初、「宏井の店、作品集を出します」とだけ書かれたシンプルかつストイックな説明を読んで「隣は年配の方の店なのかな」などと勝手に空想していたのですが、当日ご挨拶するとなんのことはない27歳、ひとつ年上のおしゃれなお兄さんでした。 ちなみに内容は宏井さん個人の中・短編を集めたものとなっていて、 『わたしの記憶』 『ソロンの演説』 『ある潜伏取材』 『霊園の沼』 の四作品が収められています。 僕は前半のふたつについてレビューします。 全体の感想ですが、たいへん面白く拝読しました。完成度が高い! 文学賞への投稿歴も長いということで、さすがに文章が馴染んでいる。「若気の至り」みたいな表現はまったくなく、沈黙のなかでじっくりと練り上げられた言葉という印象があります。 「わたしの記憶」「わたし」の幼少期を描いた私小説的な作品。 自意識が強く、他人に対してつねに演技的な少年の心理が綴られています。 暗い。しかしジメジメした暗さというよりひんやりした暗さです。 この二作を読む限り、暗さというのはこの作家が宿命的に背負っているものなのかもしれません。そして僕は嫌いじゃないです。 物語としてはおそらく実体験が種になっているとは思われるのですが、しかし単なる私小説でもない気がします。というのは、必ずしも作者は自らのすべてを作中で開示していないように思えたから。 まず、私小説というのは自らの他者性を直截に読者に売り込むタイプの作風だと僕は理解しています。 そしてとりわけダークサイドよりの(破滅型)私小説は、作家が自らの弱さや醜さを一切隠すことなく積極的に開示してゆくことで強烈なリアリティを獲得する。 私小説『苦役列車』で芥川賞を受賞された西村賢太さんは、あるインタビューで、 「作中人物の行動・心理が『自分と同じだ』と感じた読者がすがるようにして読むものが私小説である」と仰っていました。「すがる」というのは至言で、そこには尊敬と卑下が混在しているような気がします。 たんなるストーリー上の演出ではなく、作品のうしろで生の作家がじっさいに苦悩している様が伺えるからこそ、読者はそうした主人公=作者を軽蔑すると同時に強く惹きつけられる。 しかし、この主人公の内面はあんまりドロドロジメジメしていません。 あるいは主人公が小学校低学年ということからくる必然的帰結なのかもしれませんが、逆に言えば作家は意図的に「高学年」を描いていないようにも思えました。私小説につきものの生理的な嫌悪感が、あまり惹起されないのです。 たとえば性への関心はほのかな芽生えのままに留まっており、太宰治の「按摩」(マスターベーションの換喩)のような直接的な行動には結実しません。そして主人公の性欲がはっきりとした像を結ばないゆえに、その内面的な「罪」の意識もぼんやりとしたものに留まっている。(一方で登場する小学生女子の言動はとてもリアルで、作者の観察眼の鋭さには驚かされます) また人間以外の生物への視線もどちらかというと同情・共感によって支えられており、有機体の醸し出す生臭さみたいなものはあんまり感じません。 もちろん、たんなる幼年期の心境解剖であって体験の開示とは無縁の作品だ、と読むこともできます。しかし、この地道な描写や内省的なトーンに作者自身による告白性を感じるのはきっと僕だけではないでしょう。 また、この作者は非常に高い技術を持っていますが、しかし「技術の作家」に徹することができるほど自己から自由にはなれないんじゃないかな、という気がします。これは批評というよりほとんどシンパシーですが。 そんなことから、全体として僕の得た印象は次のようなものです。 この作者にはきっと「見えて」いる、しかし見えたものすべてをさらけ出すことはあえてしなかった……。これは長所でもあり欠点でもあるのかもしれません。老成した雰囲気はこの作家の大きな魅力でもある一方、やや物足りないと思う読者もいるかもしれませんから。 そのかわり(ここが作者のクレバーなところですね)、作中には物語への没入を誘うきっかけが散りばめられています。フユコからの手紙や、後半の物理的暴力のシーンは、しみじみと哀しい美しさを湛えています。あんまり書くとネタバレになってしまうのですが、僕はこういう描写が大好きです。 たしかに暗いけれど、冬の朝の日陰みたいに冷えていてちょっと清潔な感じもある。 その意味で、文体の成熟とはうらはらに、この作家が世界を見るセンスはきわめて現代的・僕にとって同時代的なものとして映ります。(『新潮』に投稿されていたということですが、僕はむしろ『文藝』の作家陣に通じるものを感じました) 「ソロンの演説」 なんというか、僕にとって自分の『星の躓き』のことを思い出してしまう読書でした。 アテナイの政治家ソロンの晩年を描いた作品で、完璧な構成と堅実な設定を備えて老年の心理を丹念に描いた傑作です。伏線の回収もバッチリ決まっていて非常に完成度が高いです。 上で老成した雰囲気がこの作者の魅力であると書きましたが、老年の寂寥というのはぴったりな題材なのかなとも思います。 しかしドラマティックな演出が効いているのもこの作品のいいところ。 とくにペイシストラトスとの対話がいい。じつに巧みに練り上げられており、疑念の暗黒色と諦念の枯淡な色合いが程よく混じり合った、この作家の真骨頂かもしれません。 描写はきわめてミニマルなのですが、会話のテンポがわりにゆっくりで、そのギャップから奇妙な迫真性が生まれている。 読者はおそらくペイシストラトスに感情移入しながら読むことになると思うのですが、相手にまわったときのソロンは老獪なようにも真摯で情熱的なようにも思われて、非常にやっかいです。 古代人らしい率直さといえばそうなんですけどね。 なんだか僭越な気もしますが、どうしても言いたいことがひとつ。 クライマックスであるソロンの演説は台詞の全文を描き切って欲しかった! 冗長になってしまうというリスクはありますが、ここまでずっと抑制的な文体で描き切った作者だからこそ、ここでその技術とパトスをふんだんに開放してほしかった。 こう書くのは、その直前、コミアスの邸宅を訪ねるシーンからの接続が最高に効果的だからです。文章はあくまで淡々としているのですが、その拘束を振り切って物語の力が溢れてきている。ここめちゃくちゃ面白いです。 だからこそ、かりそめでもいいから「結実」を見てみたかったなあという気がするんですよね。ここもあんまり書くとネタバレになってしまうので、ぜひ皆さま読んでください。 ラストはやっぱり美しいです。これは何作も書いて経験を積んだ人でないと描けない終わり方かもしれません。 作家のゆく道ところで、この作者の文体について気付いたことがあります。 それは二重否定「ないこともない」の多用です。「○○しないでもない」「○○でないこともなかった」といった表現が非常に多く出てくる。とにかく出てくる。 多く出てくるから鬱陶しい、読みにくいとかそういうことではなく、ここに作家の偽らざる内面が露呈しているような気がするんです。意図的なのか無意識的なのかはわかりません。それでも、物語のテンポが速まるにつれて、ないしは主人公の心理への没入が深まるにつれて「ないでもない」が増えてゆくように思われるので、なんとなく無意識にそうなっているのかなという気がします。(あるいは意図的に配置しているのだとすると、その試みは大成功ということになりますね。) 換言すれば、「ある」と言い切らないところが、あるいは言い切れないところが、この作家が背負う宿命を暗示しているようにも思えます。 僕は第一作「わたしの記憶」にかんして、作家が自己開示を避けていると書きました。 しかし、確かに作品に表れているところもあります。主人公の独白にもある通り、それはきっと臆病さです。それは物語のなかのある登場人物二人がほのかな味わいを残したまま「転校」してしまうことにも表れている。 結実することを避ける臆病さと、そうした性向には避けられない孤独を抱えながら、しかし小説という自己の分身を描き切ることを強要される作家というのは過酷で、ときに悲惨であり、しかしだからこそ魅力的です。そして作家にとっての文体とは、自意識の檻であると同時に防波堤でもあり、そして媒介物でもあるのかもしれません。 最後に。筆者はあとがきで「自らの作品が小説になっているか自信がない」、と述べています。しかし僕が生意気にもここまでごたごたと感想を述べることができたのは、氏の作品が小説として確かな生命を宿しており、その内的な運動をはっきりと僕に示してくれたからだと思います。 すっかり堪能したので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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いよいよ、ほんとうの文フリ前夜となりました。 今日は当日までにどうしても書いておきたかったことをひとつ――「純文学」という言葉についてです。 純文学の解体。『筆の海』には「純文学雑誌」というやや時代錯誤的なサブタイトルがついています。 しかし、「純文学」というのはほんらい意味のある分類法ではありません。 文芸作品のうち、なんとなく芸術的な意識の強いものを「純文学」、エンタメ色の強いものを「大衆文学」と呼ぶくらいのイメージは一般に共有されているかもしれませんが、両者の境界はきわめてあいまいです。 エンターテインメントが芸術ではないという根拠はどこにもありませんし、芸術にエンタメの要素がまったくないと言い切ることもできません。 Vol.2でさやわか氏を引用しつつ書いたことですが、(純)文学とはこういうものだ、と考えられてきたイメージはあくまで「錯覚」にすぎないのです。 だからこそ、純文学というのは「文壇」と不可分のものだといわれたりもします。 芸術家だと自認する作家のグループがいて、そのグループに認められる(たとえば芥川賞を受賞する)ことで「純文学」作家となることができる。そうしたコネクションが形成される場が文壇である、と。 そこで作品の優劣を決めるものは大衆消費による市場原理ではなく、権威ある作家に認められるか否かだった。 しかし、映像や漫画など他メディアの台頭によって、文学そのものの影響力の相対的な低下がおこった。 文壇の権威やなんとなく高尚そうな雰囲気だけでは、純文学は読者を獲得できなくなってしまったのです。 また一方で、村上春樹さんをはじめ、文壇から距離をとりながらも芸術性の高い作品を発表する作家というのも増えてきた。(そしてしばしば商業的にも大きなヒットとなりました) vol.1でも引用しましたが、大塚英志さんが文学フリマを立ち上げた経緯には、そうした「既得権益としての文学」(=文壇とその周辺)の外部に作品流通の場を設けて、文学の閉塞を打破しようという意図があったようです。 僕はそうした批評や経緯を知ったうえで、しかしそれでも純文学という言葉を選びました。 そのことについて書いておきたかったのです。 純文学の解体?最近、大塚さんについての面白い記事(cakes, 大塚英志と『感情化する社会』の不愉快な現実 ※追記、2016年11月24日現在、大塚さんの意向で非公開になったようです)を読みました。 そのポイントについて僕なりにまとめてみると、 「口当たりのいい情報」、「すぐ効く情報」ばかりが求められる時代では ということでしょうか。 これが現代への「批評」として正当かどうかは、僕にはわかりません。 「わかりにくい」ものとの衝突はいつの時代だって避けられていたような気もしますし、こむずかしくて抽象的な論理よりも素朴な感受性こそ重要だとする思潮はたとえば十八世紀の西洋において既に存在していました。 とはいえ、大塚さんがいう〈ことばの「コスパ」〉という考え方は僕自身の理解にぴったり一致しています。 人間が社会のなかで文章を読んだり、映像を見たりする様子をひとつの市場としてみた場合、「わかりやすさ」とは「価格」であり、「情報の内容」とは「品質」であるといえるでしょう。 同じ品質(内容)の製品なら、誰だって安いもの(わかりやすいもの)を選ぶはず。 文学賞だとか高尚なテーマだとか、そんなことはすべて取り払って、 言語による表現活動の総称としての文学のことを考えてみましょう。 それでも、一冊の本を書くことを志向する文学というのは、いわば本質的に高価格な製品しか作れない企業です。 たとえその形式が詩であれ批評であれ、それがたんなる説明でなく「表現」や「作品」である以上は同じことです。 作品を作品たらしめているもの、表現の個性そのものが「わかりにくさ」の原因なのですから。 安さ勝負、価格競争になってしまうと文学は圧倒的に不利なのです。 だとするならば、文学にはふたたび自らのブランドを確立しようとする努力が必要なのかもしれません。 できあいの権威に頼ったり、あいまいな雰囲気に流されることなく。 財布の中身は有限ですから、普段着はファストファッションで十分かもしれない。 しかし、特別なディナーや過酷な旅路にふさわしい服装というものもきっとあるはずです。 それが贅沢な趣味だと僕は思いません。 孤独で平凡な日常の繰り返しのなかに、そうした特別な価値のある一瞬が埋もれていると教えてくれるのもまた文学だと信じるからです。 文学にふさわしい内容とはなんなのか。 文学にしか乗り越えられない現実とはなんなのか。 「文学にしか描けないものを純粋に探求する」という意味が、純文学雑誌という言葉にはこめられています。 探求が成功しているかどうか、それはぜひ明日の文学フリマ東京で『筆の海』を手に取って(できればお買い求めいただいて)確かめてください。僕たちも、忌憚ないご意見をお待ちしております。 すっかり長文になってしまいましたが、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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