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文フリ前夜 Vol.3

11/22/2016

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いよいよ、ほんとうの文フリ前夜となりました。

今日は当日までにどうしても書いておきたかったことをひとつ――「純文学」という言葉についてです。


純文学の解体。

『筆の海』には「純文学雑誌」というやや時代錯誤的なサブタイトルがついています。
しかし、「純文学」というのはほんらい意味のある分類法ではありません。


文芸作品のうち、なんとなく芸術的な意識の強いものを「純文学」、エンタメ色の強いものを「大衆文学」と呼ぶくらいのイメージは一般に共有されているかもしれませんが、両者の境界はきわめてあいまいです。
エンターテインメントが芸術ではないという根拠はどこにもありませんし、芸術にエンタメの要素がまったくないと言い切ることもできません。
Vol.2でさやわか氏を引用しつつ書いたことですが、(純)文学とはこういうものだ、と考えられてきたイメージはあくまで「錯覚」にすぎないのです。


だからこそ、純文学というのは「文壇」と不可分のものだといわれたりもします。
芸術家だと自認する作家のグループがいて、そのグループに認められる(たとえば芥川賞を受賞する)ことで「純文学」作家となることができる。そうしたコネクションが形成される場が文壇である、と。


そこで作品の優劣を決めるものは大衆消費による市場原理ではなく、権威ある作家に認められるか否かだった。


しかし、映像や漫画など他メディアの台頭によって、文学そのものの影響力の相対的な低下がおこった。
文壇の権威やなんとなく高尚そうな雰囲気だけでは、純文学は読者を獲得できなくなってしまったのです。
また一方で、村上春樹さんをはじめ、文壇から距離をとりながらも芸術性の高い作品を発表する作家というのも増えてきた。(そしてしばしば商業的にも大きなヒットとなりました)


vol.1でも引用しましたが、大塚英志さんが文学フリマを立ち上げた経緯には、そうした「既得権益としての文学」(=文壇とその周辺)の外部に作品流通の場を設けて、文学の閉塞を打破しようという意図があったようです。


僕はそうした批評や経緯を知ったうえで、しかしそれでも純文学という言葉を選びました。
​そのことについて書いておきたかったのです。

純文学の解体?

最近、大塚さんについての面白い記事(cakes, 大塚英志と『感情化する社会』の不愉快な現実 ※追記、2016年11月24日現在、大塚さんの意向で非公開になったようです)を読みました。

そのポイントについて僕なりにまとめてみると、
「口当たりのいい情報」、「すぐ効く情報」ばかりが求められる時代では
「わかりやすさ」こそ至上の価値であって、一冊の本を書かねば表現できないような情報(=文学)は廃れてしまう。
ということでしょうか。


これが現代への「批評」として正当かどうかは、僕にはわかりません。
「わかりにくい」ものとの衝突はいつの時代だって避けられていたような気もしますし、こむずかしくて抽象的な論理よりも素朴な感受性こそ重要だとする思潮はたとえば十八世紀の西洋において既に存在していました。


とはいえ、大塚さんがいう〈ことばの「コスパ」〉という考え方は僕自身の理解にぴったり一致しています。
人間が社会のなかで文章を読んだり、映像を見たりする様子をひとつの市場としてみた場合、「わかりやすさ」とは「価格」であり、「情報の内容」とは「品質」であるといえるでしょう。


同じ品質(内容)の製品なら、誰だって安いもの(わかりやすいもの)を選ぶはず。


文学賞だとか高尚なテーマだとか、そんなことはすべて取り払って、
言語による表現活動の総称としての文学のことを考えてみましょう。
それでも、一冊の本を書くことを志向する文学というのは、いわば本質的に高価格な製品しか作れない企業です。
たとえその形式が詩であれ批評であれ、それがたんなる説明でなく「表現」や「作品」である以上は同じことです。
作品を作品たらしめているもの、表現の個性そのものが「わかりにくさ」の原因なのですから。


安さ勝負、価格競争になってしまうと文学は圧倒的に不利なのです。
だとするならば、文学にはふたたび自らのブランドを確立しようとする努力が必要なのかもしれません。
できあいの権威に頼ったり、あいまいな雰囲気に流されることなく。


財布の中身は有限ですから、普段着はファストファッションで十分かもしれない。
しかし、特別なディナーや過酷な旅路にふさわしい服装というものもきっとあるはずです。


それが贅沢な趣味だと僕は思いません。
孤独で平凡な日常の繰り返しのなかに、そうした特別な価値のある一瞬が埋もれていると教えてくれるのもまた文学だと信じるからです。


​
文学にふさわしい内容とはなんなのか。
文学にしか乗り越えられない現実とはなんなのか。


「文学にしか描けないものを純粋に探求する」という意味が、純文学雑誌という言葉にはこめられています。
探求が成功しているかどうか、それはぜひ明日の文学フリマ東京で『筆の海』を手に取って(できればお買い求めいただいて)確かめてください。僕たちも、忌憚ないご意見をお待ちしております。
​
すっかり長文になってしまいましたが、今日はここまで。
それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
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