(※あまりにも長くなってしまったので、記事を上下に分けて公開することにしました。サークル「本質的にちくらぎ」さんの『あみめでぃあ Vol.6』に関するレビューは(上)を御覧ください。) 一方で、つれづれ推進委員会さんもまた「創造と概念の新しい関係」をモットーに掲げておられます。もともとはバンドとして活動しておられたという三人組で、今回は作品を購入すると、小説(文庫本)と楽曲(オンライン配信)の両方を楽しむことができます。 ということで、今は楽曲版『うみべの出来事』を聴きながらこの文章を書いているのですが、「楽曲を文学フリマで頒布する」=「文学としての音楽」というのはなかなか興味深いコンセプトだと思いました。というのも、言語芸術としての文学は積極的にせよ消極的にせよ概念を扱わずにはいられないわけですが、メロディーやハーモニーやリズムからなる音楽経験には「概念」のように明晰に言語化された思考が介在する余地があまりないように思われるからです(あまり、と書いたのは絶対音感のことが念頭にあったからです。すべての可聴振動を十二平均律として聴く、というのは概念的把握に該当するような気もしますが、当事者でないこともあってよくわかりません)。 とはいっても、もはやベートーヴェンの生涯をフリードリヒ・フォン・シラーの詩から切り離して論じることはできないでしょうし、文人音楽家というにはあまりにも文学者でありすぎたリヒャルト・ワーグナーらのロマン派歌劇や、ジョン・ケージのような実験的試みまで、文学(ないし哲学)と音楽はつねによき伴走者であり続けてきました。またポピュラー・ミュージックにおける歌詞の重要性は言うまでもありません。 ではいったい、音楽にのせて歌詞が歌われることを、われわれはどのように理解するべきなのでしょう?それは感官による概念的思考の侵蝕なのか、あるいは概念による世界の調教なのか、それとも理性と情念の実存における再統合なのか?そもそも言語の起源とはなんなのか、概念をもちいた抽象的議論と心情のこもった歌唱の違いとは……?僕にもまだ上手く答えられませんが、まただからこそ、単なる”文学性”から一歩踏み込んで「概念」に焦点を定めたつれづれ委員会さんの試みはとても興味深いものに思われてきます。 小説版『うみべの出来事』についても見てみましょう。本作には「存在について」というサブタイトルが付せられています。高校生活を舞台に、他者のまなざしによって安心と不安のあいだを揺れ動く自己のありかた=「存在」を、光と影とに仮託しながら描いてゆく――まさに青春小説の佳作といっていいでしょう。物語が進むにしたがって欠けていたピースが嵌ってゆく(「謎解き」に近い)構成になっているので、ここではあまり内容については書きませんが、あえて主体をぼかした語りの効果だったり、場面転換のそつの無さであったりと、技術的な良さも多い作品だと思いました。 著者の吉岡大地さんは『あとがき』で、物語を書き進めるにつれて作中人物たちの新しい一面が見えてきた、という趣旨のことを書いておられます。多くの小説家が吉岡さんと同じように、執筆中に「登場人物が生きて、勝手に行動しはじめる」という境地のことを記していますが、概念の集合(=設定)でしかなかった人物が、活き活きとした生として、いわば「存在感」を持ちはじめるという現象もまた、ひとつの面白いテーマだなと思います。 年歩むさて、いよいよ2017年も終わりを迎えようとしています。 色々と考えながら書いているため時間がかかっていますが、今後も折をみてレビューは続けてゆきたいと思います。 もちろん創作も。 すっかり堪能したので、今年はここまで。 それではごきげんよう。皆様よいお年をお迎えください。 石田幸丸(習作派編集部)
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文フリ購入作品のレビュー、第二回はサークル「本質的にちくらぎ」さんの『あみめでぃあ Vol.6』 と「つれづれ推進委員会」さんの『うみべの出来事』の二冊です。 僕(石田)は今回レビューをするにあたって、この二冊はどうしても一緒に取り上げたいと考えていました。というのも、この二冊にはちょっと面白い共通点があるからです。 それは「概念」ということ。 全体論者はコーラを飲むかまず『あみめでぃあ』について。今回第七号を発刊されたということですし、なかなかに個性豊かな寄稿者が集まっていますから、文フリ界隈ではわりと有名なサークルさんかもしれません。僕がブースにお邪魔したとき、そちら(第七号)は既に売り切れており、ひとつ前の第六号(2017年5月初版発行)をいただきました。 さて、この雑誌は「概念を編み直す」ということを標榜しています。それはつまり「真理」「愛」「投げる」「ローマ字」「スマートフォン」などといった抽象的な概念を、具体的なストーリーや生活感覚のレベルから主観主義的に記述しなおすというアフォリズム的試み。……という僕の説明ではどうにも無味乾燥ですが、たとえばこの雑誌において、あの清涼飲料水は以下のように編み直されます。 コーラというのは、黒くてしゅわしゅわする液体を抵抗感なく飲めるようにする発明である(『あみめでぃあ vol.7 企画書』より) なるほど、と思わせるところがありますね。 僕は日頃ダイエットへの配慮からコカ・コーラ ゼロを愛飲していますが、それでも訪問先で「黒くてしゅわしゅわする液体」を供されて、にもかかわらず「これはコーラではありません」と告げられたとすれば、やはり口はつけたくない。用件もそこそこに荷物をまとめて辞去するような気がします。眼を瞑って敢然一飲し、あとはその液体がギネス・スタウトであるという可能性に賭けてみる蛮勇を僕は持ち得ない。 とするならば、やはりコーラを「黒くてしゅわしゅわする液体を抵抗感なく飲めるようにする発明」という語りはなんらかの正しさをもっている。正しさという言葉が適切でないとすれば、それは世界のある一面にぴったり即しているのだと言ってもよいかもしれません。この一見奇怪に転倒した表現によってはじめて反省の明るみへともたらされる経験の深層があるのです。 (ちなみに巷間伝えるところによれば「ホワイトコーラ」という白くてしゅわしゅわする液体も流通しているようですが、これを破廉恥きわまる倫理的逸脱とみなすか、伝統の軛から解き放たれた革命的実践とみなすかは解釈が分かれるところでしょう) 動機ある者たちこうした箴言的な想像力のはたらきはヒポクラテスやフランス・モラリストからフリードリヒ・ニーチェまで枚挙に暇がありませんし、現代日本における最も卓越した書き手の一人であろう村田沙耶香氏は、警抜なプロットによって「生命」「生殖(器)」「労働」といったテーマの「概念性」をえぐり出すことに成功しています。 とはいえ、そうした作品群に対して『あみめでぃあ』はもっと日常への信頼に立脚しているような気もします。 概念を主観主義的に語り直すというプロセスは、それ自体(主観の成立する場としての)日常生活への強いコミットメントを前提としています。ここでいう日常生活というのは必ずしも素朴で安閑としたものである必要はなく、ときに屈折・倒錯し、場合によっては劇的・非日常的ですらありうるものですが、いずれにせよ書き手にとっては十分に馴染んだ世界の様相であり、すみずみまで実感がこもっているからこそ説得力をもつ。その意味では、広告におけるキャッチ・コピーの技術にも相通ずるところがあるかもしれない。(ほんとうはここでロマン主義との対比についても書きたいのですが、あまりに長くなるため割愛します) つまり、前者が概念の展延性・可塑性に依拠することで日常的現実の成立基盤を揺るがそうとするのに対して、後者は日常生活の絶え間ない参照によって「概念」というシステムそのものに対するわれわれの感覚を変えようとする。あるいは「概念」という概念についてのひとつの対抗的プロジェクトでありうる。 まなざしのショコラトリーもうひとつ、今度はVol.6の収録作に目を向けてみましょう。青砥みつ氏の『鈴蘭の庭』についてです。 この「語り」(この作品が「小説」である、という言明を作者は注意深く避けているように僕には思えます)において扱われている概念は〈甘える〉ということ。環境の変化に対して、ひたすら事務処理的態度と忍従をもってあたることを旨としてきた孤独な語り手:紗代は、治一との結婚生活のなかで次第に〈甘える〉という行為に親しむようになってゆく。そのきっかけとなるのは紗代の「足の怪我」です。慣れないピンヒールで靴擦れしたとき、あるいは覚えずガラスの破片を踏みつけてしまったとき、紗代は傷ついた自己を、ただそのまま誰かに開示するという生の様相があることに――そして自己へと向けられた〈気遣いSorge〉に――気付くのです。 いやいやまったく、この構成は巧みです。「足の怪我」というのはきわめて有効なメタファーだからです。われわれは足を怪我したとき、まさに自力では〈抜き差しならない〉状況に陥っている。そのまま立ち続けていても決して傷は治らず、やがて力尽きるだけでしょう。かといって治療のために薬品や包帯を取りにゆこうとすれば、傷はいっそう深くなる。そもそも、どちらかの足に体重をかけて犠牲にしなければ、怪我の具合をよく見ることすらかなわない。 これは、独立した自律的主体であることをひたすらに追求してきた近代的自我への文字通り痛烈なアンチ・テーゼであり、人間の〈傷つきやすさVulnerability〉についての確かな洞察に基づく、ひとつのケアの倫理の宣言でありえます。現代のわれわれはいかに〈甘え〉から脱却して「自立した大人」たれと求められていることでしょう。そうしていかに多くの忍耐強い精神が、冷たい絶望の淵でもがき苦しんでいることでしょう。 強化硝子はなかなか割れないかわりに、割れたときは粉々になってしまう。我慢し続けて、我慢し続けて、壊れてしまうようだった。(p.99) 僕は一昨年(2015年)の12月25日に、大手広告代理店の新入社員が過労自死にみまわれた出来事のことを思い出します。亡くなった高橋まつりさんは僕のひとつ年下の方でした。面識はありませんでしたが、死の直前のTwitter投稿を見たとき、その迷いと苦しみと、それでもなお強くあらねばならなかった彼女の絶望がいかに深いものであったかを知りました。重要なことなので冗長を怖れず付言しておけば、僕は高橋さんが〈甘える〉ことができれば自死は防げた、と主張したいわけではありません。事実問題として彼女は社内のさまざまな人々に相談を持ちかけていたのであり(東大新聞オンライン『高橋まつりさんの死は人ごとか 東大OGの過労死を巡って』より)、甘えることさえできれば万事うまくいったのだなどということは、まったくの事実誤認に基づく怠惰で粗雑な推論でしかありません。また労働災害であるという認定が下された以上、とうぜん組織的・制度的責任についても考えねばならない。 しかしながら、翻ってそれを「同時代の問題」という視角から考えたときにはどうでしょう。忍耐強さは依然として社会生活に不可欠の美徳であり続けるとしても、われわれは、傷だらけの足でただ立ち竦む人間存在について、またその背後から音もなく忍びよる絶望のひややかさについて、どれだけ知悉しているといえるでしょうか。「独立した個人」という理念こそ実はフィクションなのだという主張に、どれだけ確信をもって反駁できるでしょうか。 概念の雪解け同時代の、しかも同世代のひとびとの生の背景をなす渾沌に、文学的想像力が向き合わぬとすれば、はたしてなんのための文藝か。その意味で『鈴蘭の庭』は決してナイーヴな夢物語ではありえず、〈甘える〉や〈自立〉や〈孤独〉といった概念の根本的な虚構性・排他性に、揺るぎない日常感覚を対置しようとするきわめて切実な試みであると僕には思われます。 もっとも、紗代と治一の関係があくまで見合い結婚という伝統的・ジェンダー固定的な装置によって、しかも偶然に外部からもたらされたものだという留保は必要でしょう(世の中にはそうしたパートナーすら得られない人々も少なくありません)し、治一の〈気遣い〉が男性性の延長としての騎士道精神やパターナリズム以上のものでありうるのかどうかは、僕にはまだ分かりません。そしてなによりも、僕自身はまだ近代的自我の問題系を、すなわち自律的な個人という理想を諦めきれない。 しかしながら「孤独がもたらしてくれる安寧は、わたしが知っているかぎり充分に信頼の置けるものです」(p.103)と語る作者が、それでもなお踏み出した一歩の重みを、ここでは尊重し信頼し、ただ受け止めておきたいと思います。 ところで、『あみめでぃあ』には校正担当がいらっしゃるというのを読んで心底羨ましく思いました。誤字をなくせるかどうかは別として、表現者たるもの誰よりも自分に厳しくあらねばなりませんね。僕たちも〆切のマネジメントから始めねば。(軽はずみな決意)
年の瀬せまる12月、皆様いかがお過ごしでしょうか。 去る11月23日に、習作派は第二十五回文学フリマ東京に参加してきました。 『筆の海』を買っていただいたり、また他サークルさんの雑誌に触れたりするなかで、いろいろと考えたこともあるので、書き留めておこうと思います。 まずは購入した雑誌のレビューから。第一回はこれまでとちょっと毛色の違うものを。 ふたつ隣のブースで出店されていた、ばあらさんの作品です。 『三重吉さんてこんな人 1』 『三重吉さんてこんな人 2』 『松根東洋城てこんな人』 『鈴木三重吉ゆかりの地めぐりin広島』 『三重吉さんてこんな人』毛色が違うといったものの、これぞ文フリ、という作品だと思います。 漱石門下のひとりで児童文学者としても知られた鈴木三重吉について紹介したマンガです。 三重吉の生い立ちや性格、交友関係などを簡単なストーリー形式で追ってゆくのですが、たいへん面白く読みました。一巻は三重吉出生から最初の自著刊行まで、二巻は生涯にわたる友人たちとの交流を主に扱っています。また、無料配布ということで、三重吉の親友松根東洋城をメインに据えたスピンオフ作品『松根東洋城てこんな人』と、文学碑や墓所についての紀行マンガ『鈴木三重吉ゆかりの地めぐりin広島』もいただきました。 考えてみれば、歴史上の人物について研究するというのはいかにも不思議なことですね。見たことも会ったこともないひとりの人間について思いを馳せ、残された文章や写真からその生について再構成してゆく。今を生きる他人のことすら(あるいは自分自身のことすら)完全には理解できないのが人間なのに、あえて時間のへだたりを超えて誰かの内面に迫ろうというのですから。 饒舌な余白かくいう僕(石田)もまた、大学院ではジャン=ジャック・ルソーという思想家について研究していました。どちらかといえばより思想・哲学的な側面からのアプローチだったので、ルソーの為人についてあまり触れることはなかったのですが、それでもルソーは研究対象である以前に心の友でした(もっとも、現実のルソーはかなりつきあい難いタイプだったようですが)。それは、僕が抱える、この世界についての根源的な問いを、きっとルソーも共有してくれているのだという確信からでした。 本作において、ばあら氏は当時のテクストや三重吉自身の書簡などに丁寧にあたっておられ、おそらく国文学研究の正道を踏まえた上での創作なのだと思います。しかしながら、あるいはだからこそ、その描き方にはやっぱり、たんなるコミカライズ以上のもの、作者個人の「根源的な問い」としか言いようのないものが反映されているように思いました。三重吉と森田草平とのあたたかく血の通った友情を描く氏の筆致が、きわめて印象的で胸を打つものだったからです。 小宮(豊隆)は君に書け書けと云って迫る相だ。迫る人も一人は無くちやならぬ、僕は待つ人に成ろう。君が書くまでまたう。書かないで――書くことを忘れて、それで尚ほ生きて居られる人間ではないと三重吉を信ずるから僕はあわてない。(『三重吉さんてこんな人 2』森田草平から鈴木三重吉への書簡より) 寛大というか悠長というか、まあなんとものんびりして気の長い話ですが、僕自身同人誌を作ってみて、なんとなく共感するところもあります。 そこにあるのは、たとえば(再会の約束を果たすために生命を擲ち生霊となって駆けつけるという)『雨月物語』のような苛烈で自己犠牲的な信義とは別の、もっとしなやかな紐帯です。同じ目標へと向かって歩む、あるいは歩んでいると信ずる者たちだけのあいだに生まれる静謐な信頼。言語をあやつるメチエによって藝術家たらんとする文学者たちの、その友情や愛情が、むしろ非言語的に成立していることの――まさしく友情の〈行間〉の――美しさをこそ、作者は描きたかったのではないか。(もっとも、読者ないし編集者としては「書け」と迫ることこそ愛情でしょうから、その点で小宮豊隆もちゃんと親友としての面目を施しているとせねばなりませんね) 金曜日のモナミ三重吉の友人で、自身も俳人であった松根東洋城が、寺田寅彦と待ち合わせて連句をつくる物語も素敵です。 『金曜日のモナミ』と題されたこのスピンオフ・エピソードにおいて、東洋城は待ち合わせ場所である新宿の喫茶レストラン「モナミ」にふらりとやってくる。そうして寅彦とふたり食事をしながら取り留めのない話をして、一段落したところでようやく連句にとりかかる。店内のざわめきは背景へと遠ざかり、静思沈吟するふたりの時間はゆっくりと過ぎてゆきます。 ややあって閉会となり、店外に出たときにはもうすっかり夜の帳が降りていた。夜道にふたりは「また来週」「うん、またね」とだけ言い交わして別れる――たったこれだけの淡然たるエピソードですが、やはりそこには語られる以上の信頼と知的な安らぎがあって、あたたかい余韻を引くのです。どちらかがモナミに現れない日が続いても、きっと先でまた会は開かれ続いてゆくのだろうと思わせるような……。ちなみに「モナミ」とはフランス語のmon ami、すなわち「私の友人」という意味ですが、なかなか素敵なタイトルだと思いませんか。 藝術家どうしの、あるいは人と人のあいだの無時間的な交感というのはそれ自体ひとつの興味深いテーマです。それは『菊花の約』における左門と宗右衛門の交情が時間的制約によって際立たせられるのとは意味深い対照をなしている。後者が生の帰趨すべき「答」において相通じそれに殉じたとすれば、前者は永遠にひらかれた「問い」を手形として時の関門を踏み越える、と言ってしまっては牽強付会でしょうか。書き続ける/読み続けるということは、すべての古人が同時代人のように慕わしく、すべての同時代人が古人のように常しなえの存在であると感じられるような、そんな境地に遊ぶことなのかもしれません。 ……などと書いてきましたが、しゃちょこばって読まずとも、本作はひとつの伝記マンガとしてじゅうぶんに楽しめるものであることは間違いありません。なんといっても絵のクオリティが高い。コマ割りや吹き出しなんかも読みやすく、プロはだし、というよりこれは完全に商業作品として成立する水準なのでは……と思わされます。そういうところもまた、文フリの奥深さですね。 すっかり堪能したので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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