文フリ購入作品のレビュー、第二回はサークル「本質的にちくらぎ」さんの『あみめでぃあ Vol.6』 と「つれづれ推進委員会」さんの『うみべの出来事』の二冊です。 僕(石田)は今回レビューをするにあたって、この二冊はどうしても一緒に取り上げたいと考えていました。というのも、この二冊にはちょっと面白い共通点があるからです。 それは「概念」ということ。 全体論者はコーラを飲むかまず『あみめでぃあ』について。今回第七号を発刊されたということですし、なかなかに個性豊かな寄稿者が集まっていますから、文フリ界隈ではわりと有名なサークルさんかもしれません。僕がブースにお邪魔したとき、そちら(第七号)は既に売り切れており、ひとつ前の第六号(2017年5月初版発行)をいただきました。 さて、この雑誌は「概念を編み直す」ということを標榜しています。それはつまり「真理」「愛」「投げる」「ローマ字」「スマートフォン」などといった抽象的な概念を、具体的なストーリーや生活感覚のレベルから主観主義的に記述しなおすというアフォリズム的試み。……という僕の説明ではどうにも無味乾燥ですが、たとえばこの雑誌において、あの清涼飲料水は以下のように編み直されます。 コーラというのは、黒くてしゅわしゅわする液体を抵抗感なく飲めるようにする発明である(『あみめでぃあ vol.7 企画書』より) なるほど、と思わせるところがありますね。 僕は日頃ダイエットへの配慮からコカ・コーラ ゼロを愛飲していますが、それでも訪問先で「黒くてしゅわしゅわする液体」を供されて、にもかかわらず「これはコーラではありません」と告げられたとすれば、やはり口はつけたくない。用件もそこそこに荷物をまとめて辞去するような気がします。眼を瞑って敢然一飲し、あとはその液体がギネス・スタウトであるという可能性に賭けてみる蛮勇を僕は持ち得ない。 とするならば、やはりコーラを「黒くてしゅわしゅわする液体を抵抗感なく飲めるようにする発明」という語りはなんらかの正しさをもっている。正しさという言葉が適切でないとすれば、それは世界のある一面にぴったり即しているのだと言ってもよいかもしれません。この一見奇怪に転倒した表現によってはじめて反省の明るみへともたらされる経験の深層があるのです。 (ちなみに巷間伝えるところによれば「ホワイトコーラ」という白くてしゅわしゅわする液体も流通しているようですが、これを破廉恥きわまる倫理的逸脱とみなすか、伝統の軛から解き放たれた革命的実践とみなすかは解釈が分かれるところでしょう) 動機ある者たちこうした箴言的な想像力のはたらきはヒポクラテスやフランス・モラリストからフリードリヒ・ニーチェまで枚挙に暇がありませんし、現代日本における最も卓越した書き手の一人であろう村田沙耶香氏は、警抜なプロットによって「生命」「生殖(器)」「労働」といったテーマの「概念性」をえぐり出すことに成功しています。 とはいえ、そうした作品群に対して『あみめでぃあ』はもっと日常への信頼に立脚しているような気もします。 概念を主観主義的に語り直すというプロセスは、それ自体(主観の成立する場としての)日常生活への強いコミットメントを前提としています。ここでいう日常生活というのは必ずしも素朴で安閑としたものである必要はなく、ときに屈折・倒錯し、場合によっては劇的・非日常的ですらありうるものですが、いずれにせよ書き手にとっては十分に馴染んだ世界の様相であり、すみずみまで実感がこもっているからこそ説得力をもつ。その意味では、広告におけるキャッチ・コピーの技術にも相通ずるところがあるかもしれない。(ほんとうはここでロマン主義との対比についても書きたいのですが、あまりに長くなるため割愛します) つまり、前者が概念の展延性・可塑性に依拠することで日常的現実の成立基盤を揺るがそうとするのに対して、後者は日常生活の絶え間ない参照によって「概念」というシステムそのものに対するわれわれの感覚を変えようとする。あるいは「概念」という概念についてのひとつの対抗的プロジェクトでありうる。 まなざしのショコラトリーもうひとつ、今度はVol.6の収録作に目を向けてみましょう。青砥みつ氏の『鈴蘭の庭』についてです。 この「語り」(この作品が「小説」である、という言明を作者は注意深く避けているように僕には思えます)において扱われている概念は〈甘える〉ということ。環境の変化に対して、ひたすら事務処理的態度と忍従をもってあたることを旨としてきた孤独な語り手:紗代は、治一との結婚生活のなかで次第に〈甘える〉という行為に親しむようになってゆく。そのきっかけとなるのは紗代の「足の怪我」です。慣れないピンヒールで靴擦れしたとき、あるいは覚えずガラスの破片を踏みつけてしまったとき、紗代は傷ついた自己を、ただそのまま誰かに開示するという生の様相があることに――そして自己へと向けられた〈気遣いSorge〉に――気付くのです。 いやいやまったく、この構成は巧みです。「足の怪我」というのはきわめて有効なメタファーだからです。われわれは足を怪我したとき、まさに自力では〈抜き差しならない〉状況に陥っている。そのまま立ち続けていても決して傷は治らず、やがて力尽きるだけでしょう。かといって治療のために薬品や包帯を取りにゆこうとすれば、傷はいっそう深くなる。そもそも、どちらかの足に体重をかけて犠牲にしなければ、怪我の具合をよく見ることすらかなわない。 これは、独立した自律的主体であることをひたすらに追求してきた近代的自我への文字通り痛烈なアンチ・テーゼであり、人間の〈傷つきやすさVulnerability〉についての確かな洞察に基づく、ひとつのケアの倫理の宣言でありえます。現代のわれわれはいかに〈甘え〉から脱却して「自立した大人」たれと求められていることでしょう。そうしていかに多くの忍耐強い精神が、冷たい絶望の淵でもがき苦しんでいることでしょう。 強化硝子はなかなか割れないかわりに、割れたときは粉々になってしまう。我慢し続けて、我慢し続けて、壊れてしまうようだった。(p.99) 僕は一昨年(2015年)の12月25日に、大手広告代理店の新入社員が過労自死にみまわれた出来事のことを思い出します。亡くなった高橋まつりさんは僕のひとつ年下の方でした。面識はありませんでしたが、死の直前のTwitter投稿を見たとき、その迷いと苦しみと、それでもなお強くあらねばならなかった彼女の絶望がいかに深いものであったかを知りました。重要なことなので冗長を怖れず付言しておけば、僕は高橋さんが〈甘える〉ことができれば自死は防げた、と主張したいわけではありません。事実問題として彼女は社内のさまざまな人々に相談を持ちかけていたのであり(東大新聞オンライン『高橋まつりさんの死は人ごとか 東大OGの過労死を巡って』より)、甘えることさえできれば万事うまくいったのだなどということは、まったくの事実誤認に基づく怠惰で粗雑な推論でしかありません。また労働災害であるという認定が下された以上、とうぜん組織的・制度的責任についても考えねばならない。 しかしながら、翻ってそれを「同時代の問題」という視角から考えたときにはどうでしょう。忍耐強さは依然として社会生活に不可欠の美徳であり続けるとしても、われわれは、傷だらけの足でただ立ち竦む人間存在について、またその背後から音もなく忍びよる絶望のひややかさについて、どれだけ知悉しているといえるでしょうか。「独立した個人」という理念こそ実はフィクションなのだという主張に、どれだけ確信をもって反駁できるでしょうか。 概念の雪解け同時代の、しかも同世代のひとびとの生の背景をなす渾沌に、文学的想像力が向き合わぬとすれば、はたしてなんのための文藝か。その意味で『鈴蘭の庭』は決してナイーヴな夢物語ではありえず、〈甘える〉や〈自立〉や〈孤独〉といった概念の根本的な虚構性・排他性に、揺るぎない日常感覚を対置しようとするきわめて切実な試みであると僕には思われます。 もっとも、紗代と治一の関係があくまで見合い結婚という伝統的・ジェンダー固定的な装置によって、しかも偶然に外部からもたらされたものだという留保は必要でしょう(世の中にはそうしたパートナーすら得られない人々も少なくありません)し、治一の〈気遣い〉が男性性の延長としての騎士道精神やパターナリズム以上のものでありうるのかどうかは、僕にはまだ分かりません。そしてなによりも、僕自身はまだ近代的自我の問題系を、すなわち自律的な個人という理想を諦めきれない。 しかしながら「孤独がもたらしてくれる安寧は、わたしが知っているかぎり充分に信頼の置けるものです」(p.103)と語る作者が、それでもなお踏み出した一歩の重みを、ここでは尊重し信頼し、ただ受け止めておきたいと思います。 ところで、『あみめでぃあ』には校正担当がいらっしゃるというのを読んで心底羨ましく思いました。誤字をなくせるかどうかは別として、表現者たるもの誰よりも自分に厳しくあらねばなりませんね。僕たちも〆切のマネジメントから始めねば。(軽はずみな決意)
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