せっかくのクリスマス・イヴなので、なにかコラムを書こうかなと思い立ちました。 最近、チャールズ・テイラーという哲学者の本を読んでいたのですが、文学・芸術にかんする記述が思わぬ形で登場し、とても面白かったので簡単にまとめてみます。 テイラーというのはもともと政治理論の文脈で名を馳せた学者で、身近なところだと(『ハーバード白熱教室』で話題になった)マイケル・サンデル教授の師にあたる人物でもあります。今回紹介する本『〈ほんもの〉という倫理(The Ethics of Authenticity)』も、政治哲学の視角から人間について分析した著作ということができるでしょう。 といっても、内容はわれわれにとってきわめて身近なもの。僕(石田)なりに一言でまとめると、テイラーの問題意識は「現代社会に対してどのような態度をとるべきか」というものです。あとあとで重要になってくるので、彼の文学論に入るまえに、手短に理論を概観しておきましょう。 ふたつの顔われわれが現代社会について考えるとき、しばしば二つの極端な立場――全面的な肯定、もしくは全面的な否定――に陥ってしまいがちです。 近代以降のわれわれは、科学技術を発展させるとともに迷信や偏見を解消し、個人としての自立を獲得してきました。つまり、「個人主義(individualism)」の考え方に基づいて、自分の生き方を自分自身で決定することができるようになったわけです。 しかし一方で、個人主義の進展によって、人々のあいだの絆や道徳もまた解体されてしまった。ある人の価値観について他人がどうこう言うことはできないと考えられるようになり、また同時に人々は自己決定を重んじるあまり他人に関心を払わなくなってゆく。 いわば、現代のわれわれは「魔女狩り」によって迫害されることはなくなった代わりに、「カネの亡者」のような人物を批判する基盤も究極的には失ってしまいました。 ですから、自己決定を偏重して現代社会を全肯定してしまうと、たとえば目的のために他人や自然環境を搾取・破壊するエゴイズムをも肯定することになり、いっぽうで現代社会を不道徳で浅薄なものとして全否定すれば個人の自由やテクノロジーによって豊かになった生活をも否定することになってしまう。 全肯定や全否定といった極論ではなく、現代社会の利点と欠点を正しく評価して理想に近づけてゆくためにはどうすればよいか。テイラーは現代社会がどのようにしてつくられたかを理解することで、つまり近代化の本質とはどこにあるのかを見極めることで突破口を開こうとします。 〈自分らしさ〉と芸術家テイラーの理解によれば、個人主義の本質とは、われわれが迷信や偏見に囚われることなく〈自分だけの〉アイデンティティを発見してそれを明確に表現する、というところにあります。われわれは〈自分らしい〉あり方を発見して、そのように自らの生活を選び取ってゆくことに人生の意義を見出します。 そして、このような自己発見―表現のプロセスは芸術的創造ときわめて似通ったものです。 芸術家とはその人だけにふさわしい自己(作品のありかた)を定義し、表現している存在です。ですから、近代以降の社会において芸術家は、〈自分らしい生を生きている人物〉の模範として英雄視されるようになってゆく。 こうした議論を補強するものが、芸術の役割にかんする理解の変容です。古来、芸術の役割はミメーシス=「模倣」であると考えられていました。つまり、芸術品とは事物の本質(イデア)を写し取ったものであり、また本質の模倣が適切になされていればこそ多くの人々のあいだに共通の反応・感動を引き起こすことができるのだと考えられていた。しかし十八世紀以降の思想家(たとえばヘルダーなど)において芸術は「創造」の営みとして理解されるようになってゆきます。作品のありかたを作者が他によらず自ら定義する「創造」とは、まさに〈その人らしさ〉の自己発見とぴったり重なります。 さらに言えば、十八世紀以降、芸術は道徳からはっきりとした形で切り離されてゆきます。シャフツベリやカントといった哲学者たちは、美の目的は美それ自体にあると考えました。われわれは芸術作品の美しさにふれたときに満足を覚えますが、それは美しいことが道徳や欲求の充足にかなっているからではありません。ただ美しいがゆえにわれわれは満足感を覚えるのです。 もちろん、〈自分らしさ〉の探求においても同様の論理が働いています。〈自分らしく〉あることは、なにか別の目的のためにそうするのではなく、まさに〈自分らしくある〉ことの満足のためにそうするのです。 これは僕の私見ですが、現代の私たちがSNSに強い魅力を感じる理由のひとつには、それが自己表現の場であるから――写真や文章を投稿することによって〈自分らしさ〉を作り上げてゆくことができるから、ということもあるのかもしれません。 芸術の主観化 こうした個人主義が文化に与えたインパクトを、テイラーは「主観化(subjectivation)」と呼んでいます。主観化とは、まさにものごとの基準が主観中心になってゆくということ。 たとえば近代以前の芸術においては、「万物照応(correspondences)」という考え方が存在していました。 シェークスピアの『マクベス』において、ダンカン王が弑される直前、鷹がフクロウに殺されるという出来事がおこります。これはたんなる雰囲気づくりの演出などではなく、むしろ「鳥類の王者」たる鷹の死によって、王の殺害そのものを直接的に示している。十八世紀以前の芸術においては、こうした鷹=王のような対応関係の共通了解がひとびとのあいだで成立しており、そうした参照項にしたがって芸術が成立していたといえます。 一方で、近現代の芸術においてはもはやそうした共通了解は存在しなくなっています。たとえばリルケの『ドゥイノの悲歌』は次のように始まります――「ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ」。 ここでいう「天使」について理解するとき、もはや共通の知識はあてにできません。この天使はキリスト教の教義に登場する天使たちのことを指すわけではないのです。そうではなく、「(リルケの)叫び声が届かない存在」ということ手がかりに、われわれが作品全体を読解することではじめてその意味が明らかなものとなる。つまりこの「天使」とはリルケが世界にたいする自分の感覚を表現するために用いた象徴なのであって、まさにリルケ=芸術家の「主観」とむすびついた「創造的」なことばの用法といえるでしょう。 より正確に言えば、近代においても万物照応という原理を用いて詩をつくることは可能だが、しかしその照応関係が、共通の知識ではなくそれぞれの詩人の主観に基づくようになった、ということです。 まとめましょう。われわれが社会的な道徳やしがらみから離れて、それぞれに〈自分らしさ〉の探求に踏み出してゆくのと同時に、芸術においても公的な参照点が失われ、表現のよしあしは個人の主観に属するものへと変化していったのです。 こころに響く最初にみたように、テイラーの問題意識とは、現代の全肯定にも全否定にも陥らずに社会を理想へと近づけてゆくことにありました。そしてテイラーは、問題の解決につながるひとつの光明を芸術のうちに見出すのです。 テイラーは、芸術における 「様式の主観化(subjectivation of manner)」と、 「内容の主観化(subjectivation of matter)」を区別します。 そして、近現代の芸術の様式が主観化したからといって、作品の内容もひたすら個人的でなければならないわけではないと指摘する。 表現の様式は主観的でも、その内容は作家の自己を超えたなにものかを対象としうる――イギリスの詩人ワーズワースは、詩を「強烈な感情の内発的な流出(the spontaneous overflow of powerful feeling)」と定義しましたが、しかし彼の作品からは、まぎれもなく一個人の主観を超えた世界(自然)のありかたを読み取ることができる、とテイラーはいいます。 ワーズワースをはじめ、先述のリルケ、そしてエリオット、パウンド、ジョイス、マンといった近現代における偉大な文学者たちは、たしかにそれぞれの主観・感性に基づいて言葉を操りましたが、しかし自己を超えた世界の秩序についても探求をやめてはいなかったのです。 そして狭量なエゴイズムに陥ることなく、〈自分らしい〉生の獲得を人々が目指すとき、こうした芸術作品はすぐれて人間的な導きを提供してくれます。たとえば、われわれの生には、単純な利益の計算によってはその重要性を汲み尽くせない問題というものが存在します。愛の問題や、自然の中で人間が占める位置、死者と生者の関係についてなど……。そうした問題について芸術は語ることができる。 そして、表現が主観的だからこそ、つまり「個人的な共鳴を引き起こす言語(languages of personal resonance)」によって表現されているからこそ、われわれは自らの主観において主題の重要性を感じ取ることができます。換言すれば、われわれが作品に「個人的な共鳴」を感じるとき(たとえば自然と人間の関係についてなにごとかを感じ取るとき)、われわれの〈自分らしさ〉のありようもまた変容もしてゆくということです。 芸術家の夢芸術の主観化が起こったというけれど、文学に客観的・科学的な描写を導入しようとしたエミール・ゾラたちの「自然主義」についてはどうなのか、という疑問も当然ありえます。たしかにテイラーは自然主義について本書では言及していませんが、彼の議論を補う道はふたつあるでしょう。たとえば科学的な描写を「目に見えたとおりに描く」こととして理解した場合、それは徹底した主観化でもあるということ。そして第二に、「観察可能な事実のみを描く」こととして理解した場合、客観との対比ではなく、むしろ神秘的・超越的な視点(宗教的奇跡や神話)との対比において自然主義は人間の主観を問題にしているといえるでしょう。 さらに言えば、既製の工業製品を芸術作品として提出したマルセル・デュシャンのインパクトの大きさは、芸術における主観化がいかに徹底的かつ広範であったかを逆説的に示しているともいえそうです。 そして日本でも、同様の状況が存在していました。我が国における近代文学の端緒をひらいた坪内逍遥の『小説神髄』において、小説は道徳や社会の進歩から離れた自律的なものであるべきと論じられています。フランスから輸入された自然主義はしばしば作家自身の体験の偽らざる記述としての「私小説」 の体裁をとりましたし、そうした私小説作家がときに自身の無道徳的ないし破滅的な生活を題材にしたことは、まさに近代化の「ふたつの顔」を忠実に反映した結果だったといえましょう。 また文学における公的な参照項の解体ということでいえば、現代のわれわれは近代以前・近代初頭の知識人が当然のごとくに有していた漢籍の教養を失ってしまいました。僕は教科書に出てくる枕草子の一節(中宮に「香炉峰の雪いかならむ」と尋ねられた清少納言が、白居易の詩を思い出してとっさに簾を上げさせて庭の雪景色を見せるというもの)が大好きなのですが、そういった暗黙の了解として通用するような知識は階級制の消滅とともに消え去っています。 テイラーの議論は、あるいは政治というフィールドで展開するにはナイーヴすぎるものかもしれません。しかし、これからの文芸が「どこへ行くのか」を知るためには、「われわれはどこから来たのか」、そして「われわれは何者なのか」を見つめる必要がある。クリスマスという西洋の伝統行事に際して、われわれの過去を振りかえってみることも、たまにはいいかもしれませんね。 夜も深まってきたので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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いよいよ冬らしい冷え込みになって参りましたが、みなさまごきげんいかがでしょうか。 さて、昨日に引き続いて『ビジネスファミチキ』のレビュー【後編】をお届けします。 実は昨日の段階で半分ほど書いてあった原稿を、自分(石田)の手違いで消去してしまい、 泣く泣く今日書き直したのですが、 一度書いた文章を記憶を頼りに復元するというのはアホくさい一方でちょっとロマンがあるような気もします。 前前前世みたいな? 後編では井口可奈さんの『ファブリック』と升本さんの『わたくしのしくじり』についてレビューします。 ※デザインとガクヅケ木田さんの『後輩君』についての感想はこちらの【前編】をごらんください。 『ファブリック』:井口可奈タイトルの通り、ふたつの「工場」をめぐる小説です。 作者の井口可奈さんは『ボーンの錯覚』で京都大学新聞文学賞の大賞を受賞されているとか。 オリジナルな世界観を構築して、途切れることなくそれを持続させる集中力はさすがです。 僕はこの作品の総合的な印象として、「なにもない空中にぺたぺたと手作りの不条理をつくりあげている」 というようなイメージを持ちました。 といっても、ここで「手作り」というのは、「作為的」という意味ではなく むしろ「素朴」といったほうが近いかもしれません。 強いて言うなら、アルベール・カミュのような乾いてギラギラした不条理ではなく、 フランツ・カフカのように地道に煉瓦を積み上げてゆくタイプの不条理といった感じかな。 しかし積まれた煉瓦は壁になるわけでも塀になるわけでもない。 何かをつくっているけれど、何をつくっているのかはわからない。 fabric, fabriqueの語源はラテン語のfabrica「仕事」であるようで、 「手作りの不条理」という物語の印象にはぴったりなタイトルかもしれません。 あるいは日本語でも布地のことを「ファブリック」といったりしますが、 そういうときもどちらかといえばテロテロしたポリエステルの布というより、 ウールなりコットンなりの編目の荒いざっくりした生地のことを思い浮かべるのではないかな。 ここでいいたいのも、そうしたイメージの核にある「手仕事」のことだと思ってください。 僕がこの小説からカフカを想起したのにはもうひとつポイントがあります。 それは、いろいろと説明される工場の内部の光景が、まったく頭のなかに像を結ばないということ。 ラズベリーの粒をぷちぷち外す工場と、 粉をこねて製品をつくる工場、 のシーンがあり、それぞれ細部の描写(ドアノブの種類とか)はなされるのですが、 全体としての部屋の光景が立ち上がってこない。 前者が「暗い工場」で、後者が「明るい工場」くらいのぼんやりしたイメージに留まっていて、立体的なモデルを思い浮かべることができないんです。 カフカの『城』において、物語の舞台となるのは城のある「街」です。 主人公はその街にやってきて逗留し、城の姿を見ながら生活してゆく。 しかしその様子を読む読者は、街の全体像がどのような構造になっているのかわからない。 街の「地図」をけっして思い描くことができないようになっている。 そんな解説を昔読んで、僕自身なるほどと思った記憶があるのですが、 『ファブリック』にも同様の描写の特性があるように思います。 物語の舞台がぼんやりしているがゆえに、そこで演じられる行為の意図や目的の分からなさが際立っている。 まさに「行為の背景がわからない」がゆえに、何かをつくっているけれど、何をつくっているのかはわからない。 僕が最初「なにもない空中に」といったのは、そういう意味からです。 (ちなみに『城』の主人公も「測量士」というなんだかワクワクするような名前の職についているのですが その仕事の内実はけっきょくどういうものかよくわからないんですよね。) あるいは『ファブリック』における背景の欠落は、「神の視点」が欠落していることに起因するのかもしれません。 あくまで「主人公が見たもの」しか描写されないがゆえに、人間が本来無意識のうちに見て補完しているはずの全体が欠落している。 というのも、ストーリーはたしかに難解ですが、『ファブリック』は"ナンセンス"の物語ではないように思われるから。 たとえば一方の工場で玄関のチャイムがピンポーンと鳴ったかと思うと、別の工場では登場人物が卓球(ピンポン?)を始めたりする。 なんらかの連鎖反応が起きていることはたしかで、それに従ってストーリーも生起するけれど、 そうした反応を整理し読者に提示する「神の視点」が存在しないだけなのかもしれない。 そんな印象があったといえます。 もっとも、この作者が謎を謎のまま提示しているからといって、それは前編で紹介した又吉直樹さんやガクヅケ木田さんのような 「笑い」のスタイルと同一視することはできません。 (井口さんも過去にお笑いをされていたそうなので、あるいは「笑い」の種類が違うだけなのかもしれませんが) 自分についてであれ、他人についてであれ、「笑い」の語りはおおむね確固たる「自分」の視点からなされるように思います。 あるいはそうした揺るぎないものへの信頼感があってはじめて「笑い」は可能なのかもしれない。 たとえば木田さんの『調布ババア』にはかなりぶっ飛んだご婦人が登場しますが、 そうした登場人物と語り手のあいだには完全な断絶があります。 まったく外部のものだからこそ、イジってエグさを際立てることもできるし、温かい視点を投げかけることもできる。 しかし、『ファブリック』においては、語り手と登場人物のあいだに決定的な断絶がない。 僕がそれをとくに感じたのは「父親」の描写において。 この「父親」は、人情味溢れるイイ奴だとか、暴力的で醜いクソ野郎だとかいった類の登場人物ではありません。 むしろもっといじましい、自分だけの小さな世界を、大切に守り続けてきた人のような印象があります。 すでに時代遅れになった技術に孤独にしがみついている。しかも、時代遅れになっているという事実の直視を恐れて外界との接触を拒むがゆえに、 いっそう無口で頑固な職人を演じなければならなくなっている――そういう人って、いませんか? 僕がこの「父親」にたいして抱いたイメージもそれに近いです。 しかし、これほど印象的な「父親」との関係は結局清算されない。尊敬も、共感も、憐憫も、はっきりした軽蔑すらもない。 この作家は、上述の『ボーンの錯覚』で、「ショートカットの女性は合理的だからトイレも短い」という 世の男子がびっくりして腰を抜かしそうなほどの啓蒙的所見を述べているのですが、 『ファブリック』の「父親」に関して、そこまで突き放した描写はなされない。 主人公と「父親」のあいだには「血のつながり」が残るのです。 別に僕は精神分析家ではありませんし、だからなんなんだと言われればそれまでなんですが、 「主人公ではありえないもの」に対する視線にも、作品・作家の個性は現れるのかもしれないな、 などと思ったということです。 積極的に引き受けるのではなく、かといって完全に拒絶もしないもの――自分にとってはなんだろうなあ。 そんなこんなで、色々考えさせられる小説でした。 とにかくみなさん読んでみて! 『わたくしのしくじり』:升本津村記久子『カソウスキの行方』へのオマージュ的エッセイ?小説なのだろうか? 職場の同僚がみんな自分のことを大好きだと仮想したら……というお話です。 これ、とっても面白いです。僕は好きだなあ。 なんか全体的に大人の色気があるんですよね。余裕があるからなのかな。 あずまんとか佐々木敦氏が開講している「ゲンロン批評再生塾」の課題に手を加えたものということですが、 俺らしい文書を書いてやるぞ!みたいな気負いが全く感じられない。口語的な文体で、ただただ淡々と出来事が語られてゆく。 それゆえか、クールな京都弁?滋賀弁?のような口調も全然嫌味っぽくなくて、結局なんかカッコよさ出ちゃってるわけですよ。 『初体験の相手』の脚注もそうでしたが、ギミックが嫌味にならない、ってのはやっぱりセクシーですよね。 譬えて言うなら、『ハチミツとクローバー』(羽海野チカ, 2001年)にオトナ側のキャラとして出てきそうな感じ! 色々と脱ぎ捨ててこられたんでしょうかねぇ。 ジャンルがよくわからないし、そもそもジャンルなんて無意味なものなんでしょうけど、 「これは批評です」って言われるといちばんしっくり来る気もする。 僕のきわめて無責任なイメージでは、批評家って泥臭くナイーヴに苦悩するか、キレッキレの知性を押し出していくか、 いずれにせよ振り切れてるタイプが多いような気がするので、こういう洗練があったら楽しいんじゃないかなあ。 an・anあたりで連載とかしてほしい。 ちょっとテイストは違いますけど、穂村弘のエッセイがお好きな人なんかは 僕と同じ感想を共有できるんじゃないかなと思います。 文芸批評についてはまだまだ不勉強で、 やたら素人くさい感想になってしまいましたけど、どうぞご寛恕ください。 皆さまぜひ読んでみてください(再) 二日連続でとても堪能したので、今回はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
怒涛の日々が終わって、ようやく穏やかな時間です。 ここのところ大学院の研究が忙しく、完全に心と時間の余裕を失っていました。 今は、夕方の空に白く浮かぶ月をみながらこの文章を書いています。 ……などとキザなことを恥じらいもなく表明してしまうあたり、 なかなかセンチメンタルになっているのかもしれません。 しかし、そんな僕(石田)の安っぽい感傷を吹き飛ばすような作品に出会いました。 雑誌名は『ビジネスファミチキ』。文学フリマに出展されていた同名の団体さんの作品集で、3人の執筆者がいろいろ寄稿しています。 以下掲載順。なお、()内は僕が便宜的につけた分類です。 『後輩君』(エッセイ):ガクヅケ木田 『初体験の相手』(エッセイ・批評):升本 『ファブリック』(小説):井口可奈 『母』(エッセイ):ガクヅケ木田 『わたくしのしくじり』(エッセイ?):升本 『調布ババア』(エッセイ):ガクヅケ木田 作品数が多いので、それぞれの作者から一作品ずつピックアップしてご紹介します。 DTPの美しさところで、この本を開いて思うのは、本文のレイアウトが美しいということ! 文学フリマに出展されていた雑誌のなかでも最上級なのではないか。 僕のサンプル数が少ないのは承知のうえですが、しかしあえてそう言いたくなる。 ちなみに僕の手許の情報だと、デザイン担当者の升本さんは『クライテリア』も手掛けられているようです。 比べてみるとノンブルのあたりのデザインに共通のセンスを感じますね。 『ファミチキ』の表紙のデザインは個性派路線なのですが、本文ページはとても端正で、上品です。 まず紙のセンスがいい。うすい黄色ですべすべしていて、別嬪という感じ。 読んでいるときから「どこかで見覚えのある紙だなあ」と感じていたのですが、まさに今思い立ったのは「岩波文庫」。 あの情緒ある紙をもうちょっと分厚くした感じですね。 フォントの扱いも職人芸の域。 文字どうしの間隔が狭すぎると野暮ったくなって、しかし広すぎると内容に没入する妨げになってしまうものですが、 絶妙なバランスで配置されています。 小技も効いています。 小説系の本のページを思い浮かべていただけるとわかりやすいと思うのですが、 だいたいは紙の中央に縦書きの文字がバーッと並んでいて、 その上か下、紙の端にページ数と作品のタイトルが小さく書いてあると思います。 『ファミチキ』の場合、本文は明朝体で、下のタイトルは細めのゴシック体になっている。 明朝体は格調があって美しいですが、ともすると難解そうな印象を与えてしまいます。 いっぽうゴシック体は現代的・デジタルな印象でかつお堅くなりすぎないので、 併用することで重厚感をほどよく緩和させて、「ビジネスファミチキ」という世界観に着地させているわけですね。 すみずみまで独自の美学が感じられるという意味で、商業誌にはない水準に到達しているのではないでしょうか。 それでは、外見のことはこれくらいにして、内容のレビューに入りましょう。 『後輩君』:ガクヅケ木田木田さん(僕)がバイト先の天使のような男の子(後輩君)を好きになってしまうラブコメ風のエッセイです。 破調・乱調の美しさというのでしょうか。 木田さんの三作品はどれも面白くてしかも読みやすいのですが、僕はこの作品が一番好きです。 筆者はプロのお笑い芸人としてもキャリアを積んでおられる方で、 「ガクヅケ」というお笑いコンビでマセキ芸能社に所属中だとか。 「お笑い芸人だから」という視点が作品を読むうえでなんの意味もないということは理解しているつもりですし、 僕自身お笑いについては全然詳しくないのですが、 しかし又吉直樹さんの『火花』を読んだとき同様、やっぱりお笑いの技術というのは文学のそれときわめて近いところで成立しているのではないかと思いました。 「笑わせる」ことと「笑われる」ことをうまく使い分けているような気がするんですよね。 『母』と『調布ババア』は、どちらも身の回りの非日常性(ふと気が付きましたがどっちもバ○ア、もとい妙齢のご婦人ですね)を対象とし、 作者は「ツッコミ」的立場でコメントを差し挟んでゆきます。 そしてコメントにおける言葉選びの巧みさによって、対象の非日常性が際立ってゆく。 非日常性を「笑える」ものにすることで読者を「笑わせる」、そんな文章だと思います。 いっぽうで『後輩君』はなんというか、書き手がひたすらボケ倒しているような勢いのある文章です。 LGBTがどうとか、そういった説明への深入りはなされませんし、読者もそうした社会的な文脈は無視して、 ひとりの書き手のちょっと重めな恋愛感情についての告白を読む楽しさがあります。 それでも、その「ちょっとした重さ」がひとつの物語として成立してしまうのは、 「なに男を好きになっとんねん」というツッコミ可能な余地を読者のために残しているからではないか。 後輩君は天使のようにかわいいのだ、と主張する「僕」をみるとき、読者にとってかわいいのは後輩君ではなくてひたすらに無邪気な「僕」へと転化している。 たとえば男性が女性アイドルについて「いかに天使か」を語ったところで このエッセイほどの勢いも愛嬌も獲得できないのではないでしょうか。 パッと思い浮かぶあたりで小林よしのり氏の文章はたしかに陶酔的ですが、 二人の「熱」のあいだには何か本質的で決定的な差異があるように思われます。 あるいはその差は、体験そのもののリアリティにあるのかもしれません。 「余地(異物感)を残しておく」ということは、そうした社会的な規範からほんとうに「逸脱」し、 現実に傷つき葛藤した(文中にもそうした描写があります)からこそ可能になったのだ、ということです。 どれほど異物といわれようとも、それは当人にとって紛れもない現実です。 いっぽうでそうしたリアリティをもたない書き手は、読者の視点を内在化してみずから違和感を埋めようとしてしまう。 現実を現実として提出することができず、無意識のうちに「説得」しようとしてしまう。 微細な異物感を核にして、その周りにいろいろなエピソードをくっつけてゆくことで奇妙なリアリティを現出させるという手法は、 たとえば最近芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』にも通ずるところがあるように思います。 「笑われる」ことというのは、書き手と読み手のあいだの本質的な関係に立脚した ひとつの芸術なのかもしれません。 そして、文中唐突に現れる、 「よろしくお願いします」(p.3)や 「色々頑張ります!!!!!」(p.7) といった書き手から投げかけられた奇妙な挨拶文を読むとき、 「笑われる」技術はきわめて危ういバランスを保って読者を内容へと引きずり込むのです。 すっかり暗くなってしまったので、今回はここまで。 井口可奈さんの『ファブリック』と升本さんの『わたくしのしくじり』については【後編】でレビューする予定です。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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