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〈自分らしさ〉と芸術:C.テイラーの文学論

12/24/2016

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せっかくのクリスマス・イヴなので、なにかコラムを書こうかなと思い立ちました。

最近、チャールズ・テイラーという哲学者の本を読んでいたのですが、文学・芸術にかんする記述が思わぬ形で登場し、とても面白かったので簡単にまとめてみます。

 
テイラーというのはもともと政治理論の文脈で名を馳せた学者で、身近なところだと(『ハーバード白熱教室』で話題になった)マイケル・サンデル教授の師にあたる人物でもあります。今回紹介する本『〈ほんもの〉という倫理(The Ethics of Authenticity)』も、政治哲学の視角から人間について分析した著作ということができるでしょう。

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といっても、内容はわれわれにとってきわめて身近なもの。僕(石田)なりに一言でまとめると、テイラーの問題意識は「現代社会に対してどのような態度をとるべきか」というものです。あとあとで重要になってくるので、彼の文学論に入るまえに、手短に理論を概観しておきましょう。
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ふたつの顔

われわれが現代社会について考えるとき、しばしば二つの極端な立場――全面的な肯定、もしくは全面的な否定――に陥ってしまいがちです。
近代以降のわれわれは、科学技術を発展させるとともに迷信や偏見を解消し、個人としての自立を獲得してきました。つまり、「個人主義(individualism)」の考え方に基づいて、自分の生き方を自分自身で決定することができるようになったわけです。
しかし一方で、個人主義の進展によって、人々のあいだの絆や道徳もまた解体されてしまった。ある人の価値観について他人がどうこう言うことはできないと考えられるようになり、また同時に人々は自己決定を重んじるあまり他人に関心を払わなくなってゆく。
いわば、現代のわれわれは「魔女狩り」によって迫害されることはなくなった代わりに、「カネの亡者」のような人物を批判する基盤も究極的には失ってしまいました。


ですから、自己決定を偏重して現代社会を全肯定してしまうと、たとえば目的のために他人や自然環境を搾取・破壊するエゴイズムをも肯定することになり、いっぽうで現代社会を不道徳で浅薄なものとして全否定すれば個人の自由やテクノロジーによって豊かになった生活をも否定することになってしまう。
​
全肯定や全否定といった極論ではなく、現代社会の利点と欠点を正しく評価して理想に近づけてゆくためにはどうすればよいか。テイラーは現代社会がどのようにしてつくられたかを理解することで、つまり近代化の本質とはどこにあるのかを見極めることで突破口を開こうとします。
​
​

〈自分らしさ〉と芸術家

テイラーの理解によれば、個人主義の本質とは、われわれが迷信や偏見に囚われることなく〈自分だけの〉アイデンティティを発見してそれを明確に表現する、というところにあります。われわれは〈自分らしい〉あり方を発見して、そのように自らの生活を選び取ってゆくことに人生の意義を見出します。

 
そして、このような自己発見―表現のプロセスは芸術的創造ときわめて似通ったものです。
芸術家とはその人だけにふさわしい自己(作品のありかた)を定義し、表現している存在です。ですから、近代以降の社会において芸術家は、〈自分らしい生を生きている人物〉の模範として英雄視されるようになってゆく。


こうした議論を補強するものが、芸術の役割にかんする理解の変容です。古来、芸術の役割はミメーシス=「模倣」であると考えられていました。つまり、芸術品とは事物の本質(イデア)を写し取ったものであり、また本質の模倣が適切になされていればこそ多くの人々のあいだに共通の反応・感動を引き起こすことができるのだと考えられていた。しかし十八世紀以降の思想家(たとえばヘルダーなど)において芸術は「創造」の営みとして理解されるようになってゆきます。作品のありかたを作者が他によらず自ら定義する「創造」とは、まさに〈その人らしさ〉の自己発見とぴったり重なります。

さらに言えば、十八世紀以降、芸術は道徳からはっきりとした形で切り離されてゆきます。シャフツベリやカントといった哲学者たちは、美の目的は美それ自体にあると考えました。われわれは芸術作品の美しさにふれたときに満足を覚えますが、それは美しいことが道徳や欲求の充足にかなっているからではありません。ただ美しいがゆえにわれわれは満足感を覚えるのです。

​もちろん、〈自分らしさ〉の探求においても同様の論理が働いています。〈自分らしく〉あることは、なにか別の目的のためにそうするのではなく、まさに〈自分らしくある〉ことの満足のためにそうするのです。
これは僕の私見ですが、​現代の私たちがSNSに強い魅力を感じる理由のひとつには、それが自己表現の場であるから――写真や文章を投稿することによって〈自分らしさ〉を作り上げてゆくことができるから、ということもあるのかもしれません。

​

芸術の主観化

こうした個人主義が文化に与えたインパクトを、テイラーは「主観化(subjectivation)」と呼んでいます。主観化とは、まさにものごとの基準が主観中心になってゆくということ。
 
たとえば近代以前の芸術においては、「万物照応(correspondences)」という考え方が存在していました。
シェークスピアの『マクベス』において、ダンカン王が弑される直前、鷹がフクロウに殺されるという出来事がおこります。これはたんなる雰囲気づくりの演出などではなく、むしろ「鳥類の王者」たる鷹の死によって、王の殺害そのものを直接的に示している。十八世紀以前の芸術においては、こうした鷹=王のような対応関係の共通了解がひとびとのあいだで成立しており、そうした参照項にしたがって芸術が成立していたといえます。


一方で、近現代の芸術においてはもはやそうした共通了解は存在しなくなっています。たとえばリルケの『ドゥイノの悲歌』は次のように始まります――「ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ」。
ここでいう「天使」について理解するとき、もはや共通の知識はあてにできません。この天使はキリスト教の教義に登場する天使たちのことを指すわけではないのです。そうではなく、「(リルケの)叫び声が届かない存在」ということ手がかりに、われわれが作品全体を読解することではじめてその意味が明らかなものとなる。つまりこの「天使」とはリルケが世界にたいする自分の感覚を表現するために用いた象徴なのであって、まさにリルケ=芸術家の「主観」とむすびついた「創造的」なことばの用法といえるでしょう。
より正確に言えば、近代においても万物照応という原理を用いて詩をつくることは可能だが、しかしその照応関係が、共通の知識ではなくそれぞれの詩人の主観に基づくようになった、ということです。
 
まとめましょう。われわれが社会的な道徳やしがらみから離れて、それぞれに〈自分らしさ〉の探求に踏み出してゆくのと同時に、芸術においても公的な参照点が失われ、表現のよしあしは個人の主観に属するものへと変化していったのです。
​

こころに響く

最初にみたように、テイラーの問題意識とは、現代の全肯定にも全否定にも陥らずに社会を理想へと近づけてゆくことにありました。そしてテイラーは、問題の解決につながるひとつの光明を芸術のうちに見出すのです。
 
テイラーは、芸術における
「様式の主観化(subjectivation of manner)」と、
「内容の主観化(subjectivation of matter)」を区別します。
そして、近現代の芸術の様式が主観化したからといって、作品の内容もひたすら個人的でなければならないわけではないと指摘する。

表現の様式は主観的でも、その内容は作家の自己を超えたなにものかを対象としうる――イギリスの詩人ワーズワースは、詩を「強烈な感情の内発的な流出(the spontaneous overflow of powerful feeling)」と定義しましたが、しかし彼の作品からは、まぎれもなく一個人の主観を超えた世界(自然)のありかたを読み取ることができる、とテイラーはいいます。
ワーズワースをはじめ、先述のリルケ、そしてエリオット、パウンド、ジョイス、マンといった近現代における偉大な文学者たちは、たしかにそれぞれの主観・感性に基づいて言葉を操りましたが、しかし自己を超えた世界の秩序についても探求をやめてはいなかったのです。


そして狭量なエゴイズムに陥ることなく、〈自分らしい〉生の獲得を人々が目指すとき、こうした芸術作品はすぐれて人間的な導きを提供してくれます。たとえば、われわれの生には、単純な利益の計算によってはその重要性を汲み尽くせない問題というものが存在します。愛の問題や、自然の中で人間が占める位置、死者と生者の関係についてなど……。そうした問題について芸術は語ることができる。
そして、表現が主観的だからこそ、つまり「個人的な共鳴を引き起こす言語(languages of personal resonance)」によって表現されているからこそ、われわれは自らの主観において主題の重要性を感じ取ることができます。換言すれば、われわれが作品に「個人的な共鳴」を感じるとき(たとえば自然と人間の関係についてなにごとかを感じ取るとき)、われわれの〈自分らしさ〉のありようもまた変容もしてゆくということです。
 

芸術家の夢

芸術の主観化が起こったというけれど、文学に客観的・科学的な描写を導入しようとしたエミール・ゾラたちの「自然主義」についてはどうなのか、という疑問も当然ありえます。たしかにテイラーは自然主義について本書では言及していませんが、彼の議論を補う道はふたつあるでしょう。たとえば科学的な描写を「目に見えたとおりに描く」こととして理解した場合、それは徹底した主観化でもあるということ。そして第二に、「観察可能な事実のみを描く」こととして理解した場合、客観との対比ではなく、むしろ神秘的・超越的な視点(宗教的奇跡や神話)との対比において自然主義は人間の主観を問題にしているといえるでしょう。
さらに言えば、既製の工業製品を芸術作品として提出したマルセル・デュシャンのインパクトの大きさは、芸術における主観化がいかに徹底的かつ広範であったかを逆説的に示しているともいえそうです。


そして日本でも、同様の状況が存在していました。我が国における近代文学の端緒をひらいた坪内逍遥の『小説神髄』において、小説は道徳や社会の進歩から離れた自律的なものであるべきと論じられています。フランスから輸入された自然主義はしばしば作家自身の体験の偽らざる記述としての「私小説」 の体裁をとりましたし、そうした私小説作家がときに自身の無道徳的ないし破滅的な生活を題材にしたことは、まさに近代化の「ふたつの顔」を忠実に反映した結果だったといえましょう。
​
また文学における公的な参照項の解体ということでいえば、現代のわれわれは近代以前・近代初頭の知識人が当然のごとくに有していた漢籍の教養を失ってしまいました。僕は教科書に出てくる枕草子の一節(中宮に「香炉峰の雪いかならむ」と尋ねられた清少納言が、白居易の詩を思い出してとっさに簾を上げさせて庭の雪景色を見せるというもの)が大好きなのですが、そういった暗黙の了解として通用するような知識は階級制の消滅とともに消え去っています。


テイラーの議論は、あるいは政治というフィールドで展開するにはナイーヴすぎるものかもしれません。しかし、これからの文芸が「どこへ行くのか」を知るためには、「われわれはどこから来たのか」、そして「われわれは何者なのか」を見つめる必要がある。クリスマスという西洋の伝統行事に際して、われわれの過去を振りかえってみることも、たまにはいいかもしれませんね。
​
夜も深まってきたので、今日はここまで。
​それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
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