又吉直樹さんの、『劇場』(「新潮」2017年4月号)を読みました。とても面白かった。 と同時に、ちょっと悔しくもあった。 又吉氏は近代文学をよく読んできたと語っています。おそらく、「近代の継承」というテーマが氏の創作にひとつの方向性を与えていることは間違いないでしょう。そして、その問題系は僕自身(石田)にとっても重要なものです。ですから、ほかならぬ僕自身が「夜を乗り越える」ために、この本について書いておこうと思います。 ※以下、本作品のネタバレを含みます。なお、()内のページ数は断りがない限り「新潮」4月号のものです。 あらすじ演劇で成功することを目指して東京で暮らす主人公永田は、沙希と出会い、貧乏ながらも朗らかな恋愛関係を結ぶ。しかし自身の作品が評価されないことを苦にする永田は、次第に沙希に対してぎくしゃくした態度しか取れなくなってゆく。加えて同世代の天才演出家:小峰の存在も永田に焦りを感じさせて……。 「何者か」であろうとする男の苦闘が、男の等身大を愛そうとするヒロインを引き裂いてしまう、そんな哀しいすれ違い――物語としての構造はきわめて近代的で、王道ともいえるものです。しかし、この作品を「手垢の付いた王道をお笑い芸人がちょっとばかり珍奇なセンスでなぞったもの」と評するのは早計にすぎる。その理由はふたつ。
方法論的自覚又吉氏が小説の方法論にきわめて自覚的であることは明白です。 たとえば、中村文則さんの『何もかも憂鬱な夜に』文庫版解説に又吉氏が寄せた文章を要約してみます。
ここでいわれている「垂直」の穴とは主題の追求のことを指しており、「横」の穴とは方法論的な実験のことでしょう。 あるいはモダン―ポストモダンの対比が観念されているといってもよいかもしれません。 無論それは方法論の革新を否定するものではありません(コアな文学マニアと読書に馴染みのない層の両者を説得したいという思いは氏の中に強くあるように思います)が、いずれにせよ、又吉氏がこのように中村作品を評価するとき、やはり氏自身もまた主題を深く掘り下げてゆく態度にシンパシーを感じているのだと推測できます。 そして、作中でもこうした問題意識ははっきりとした形をとって現れます。
僕の苦悩や怨念めいたなにかを世の中に吐き出すためのツールとして演劇を使おうとしている時点で古いのだろうか。演劇は、もっと軽やかなものなのだろうか。(p.25) 「軽やか」というのは主人公がライバル視する小峰にも付されるキー・ワードですが、同時に主人公は「重く」そして「古い」表現を背負うことを表明している。 たしかに、現代においては人間の苦悩を真正面から描くよりも、日常の些細なズレや違和感からイメージを膨らませてゆくような作品が多いかもしれません。「恋人が死んでしまった」だとか「劣等感に悩む主人公が犯罪を犯す」といったヘヴィーで劇的な設定は、直球すぎるがゆえにしばしば忌避される。 にもかかわらず永田は、人間の感情、苦悩、怨念とひたすら向き合ってゆくという、ある意味で愚直かつ時代遅れともいえるような表現を選択するのです。 又吉氏自身、人間の苦悩を正面から扱い、それを解剖してゆく近代文学に共感を覚えたことが読書にのめりこむきっかけだったと述べていますから(『夜を乗り越える』、p.40)、上記の引用部分はほとんど作者の叫びに近いものを感じます。 ですから、王道であること、近代的な問題系をそのまま継承していることは、氏のなかで明瞭に意識されている。それが古臭いものであることを知りながら、しかしそこに新しい命を吹き込もうという意図のもとになされているのです。 呪縛に囚われてあるいは、過去への単なる回帰ではないからこそ、主人公は苦悩するのだともいえるでしょう。 以前、テイラーの芸術論について紹介した記事でも書きましたが、近代において、芸術家による創造行為というのは、しばしば自己発見のプロセスと同一視されました。ですから主人公が舞台芸術を志す若者であることは、自らのアイデンティティを獲得しようともがく無名者であることと完全にイコールです。そうした無名の青年にとって、古さに依拠して自己を表現せねばならないということは、ひとつの呪いです。 芸術というものは、何の成果も得ていない誰かが中途半端な存在を正当化するための隠れ蓑などではなく、選ばれた者にだけ与えられる特権のようなものだという残酷な認識を植え付けた。(p.69) より構造的なレヴェルでいうならば、古い―新しいという対比が、卑小―天才という対比と重ねられているともいえる。 古いものへの憧憬を抱きつつも才能のない主人公(永田)と、新領域をつぎつぎと拓いていく天才(小峰)という対比のもとでは、主人公は嫉妬し苦悩することを宿命的に背負いながら表現を模索してゆかねばなりません。 卑小であるがゆえに揺るぎない自己(芸術表現)を確立することはできない。しかし古さ(近代)を志向するがゆえに、自己表現と芸術を切り離してしまうこともまたできない。 シーシュポスの神話よろしく、永遠につづく苦闘を主人公は課せられているわけです。 そしてその苦闘こそが、ヒロインとの別離を決定的なものとしてしまう。
世界のすべてに否定されるなら、すべてを憎むことができる。それは僕の特技でもあった。沙希の存在のせいで僕は世界のすべてを呪う方法を失った。沙希が破れ目になったのだ。(p.74) 練り上げられた言葉です。作中で僕がとくに好きな言葉でもあります。 自縄自縛というか相当ワガママな言い分であることも確かですが、そうした他者との衝突を不可避的に引き起こしてしまう近代的自我の病理を、うまく言い当てているようにも思えます。 認められることを誰より欲しながら、恋人の瞳の中にいる自分を認めることはできない――氏がこの作品を「恋愛小説」だというのはこうした点によるのでしょう。(村上春樹さんの『ノルウェイの森』における「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーも、おそらく念頭にあったと思われます。) 夢の纜そうしたふたりの恋愛の背景となっているのは、東京という街です。物語の終盤、主人公が小峰の作品を観てその才能を再確認するシーンにおいて、次のように語られます。 問題があるとすれば、東京で暮らす男女というテーマが、同時代の別の作家によって、ある種の滑稽な悲劇として、あるいは神話のようなものの一部分として、作品化されてしまったことだろう。この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さなければならない。(p.100) 地方を出て東京で暮らすということ、生活の奔流に呑まれそうになりながらも「夢」に踏みとどまるということは、やはりそれ自体ひとつの孤独な闘いでしょう。 そこには苦悩や怨念がある――人間が生きるということに付随する、情念の限界的状況が存在する。それはかつて近代の文学者たちが全人生を賭して取り組んだ主題でもありました。 ゆえにこそ、永田にとってその闘いは「新たな獲得」ではなく、あくまで「取り返す」ものとしてなされる。 この作家・作品において近代の継承がひとつのテーマをなしていると僕が考える理由はここにあります。 それはある意味で守旧であり懐古趣味なのかもしれませんが、「新しさ」を前にしてなお「古さ」に踏みとどまることがもたらす帰結を描くことは、現代においてしかできない、と言えるかもしれません。 小説の強度2.のお笑い芸人としてのキャリアと表現の関係について論じるのを忘れていました。 でも、ここまで書いてくれば氏が小説に対して無責任に開き直ってなどいないということは明白でしょう。この作品には基本的に「ほのめかし」がありません。いかようにも解釈できる「深そう」なことを言って読者を煙に巻く韜晦的態度とは無縁です。積み重ねられてゆく会話・描写の一語一語に、小説世界の強度を高めようという意識が感じられる。このあたりは引用ではもったいない。ぜひ実際に読んで頂ければと思います。 僕はこの作家が『火花』を発表したとき、普段買っている『文學界』が書店から売り切れているのを見て無意味に憤慨したものでした。 今回は先に『文學界』を買って読んでいたら、気づけば『新潮』が書店から消えていた。自分の学習能力のなさに呆れて「人間失格……」などと呟きたくもなる。色々と歩き回ってなんとか手に入れることができましたが、思ったより時間がかかってしまいました。 発売から一ヶ月近くたち、「いまさら」感想を述べるのかという感もありますが、5月には単行本の出版も控えているといいますから、全く機を逸していることにもならないでしょう。 長々と書いてきましたので、今夜はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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