習作派
  • 表紙
  • 習作派について
    • 四年目の習作派について
    • 五年目の習作派と『筆の海 第四号』について
  • 同人
    • 久湊有起
    • 石田幸丸
  • 同人誌について
  • ブログ
  • 通頒
  • 表紙
  • 習作派について
    • 四年目の習作派について
    • 五年目の習作派と『筆の海 第四号』について
  • 同人
    • 久湊有起
    • 石田幸丸
  • 同人誌について
  • ブログ
  • 通頒
Search

同人誌評:『風を掻き分けて』(蓮井遼)&『移ろい』(桜鬼)(上)

1/22/2018

0 コメント

 
文フリ同人誌レビュー、今回は蓮井遼さんと、サークル「波の寄る辺」の桜鬼さんの作品を扱います。どちらも近現代の作家をよく読まれているんだとか。僕(石田)としても読み応えがありました。
画像
蓮井遼:
『詩、2017』
『風を掻き分けて』
『寒い時の夢』

 
この作者に特徴的なことは、ほとんどの作品において、「死と生」というモティーフが登場することでしょう。作中の人物たちはみなそれぞれに「死」について思考し、その引力に深く魅了されてゆくのですが、一方でそこには「生」にたいするシンパシーの残響もまた鳴っている。
 
それは自殺志願者の心理(『Hanging Garden』)のような形で直接的に描かれる場合もありますが、どちらかといえば、より大きな――超越者や輪廻、生態系といった――文脈と関係づけられることで既存の死生観がいったん「解体」させられ、そのうえで新しい小説的意味の探究がなされてゆくという構造が多いようにも思われます。それは生―滅という連鎖が方法論にまで貫徹されているのだともいえますし、つねに主体のおかれた「環境」へと眼をむけかえす”エコロジー小説”の試みなのだともいえる。
画像

主体のエコロジー

“エコロジー小説”と書いたところで、ただちに僕の脳裏に浮かんだのは手塚治虫のライフ・ワークたる『火の鳥』です。かの作品においては、古代日本から未来の宇宙空間まで、さまざまな時代のさまざまな場所で、これまたさまざまな主体(動物や宇宙生物をふくむ)たちが生まれ、活動し、そして死んでゆくのですが、その結果、読者の意識は、生々流転=物語をつつみこむ「環境」としての地球・宇宙へと向かわざるを得ないようになっている。

じっさい、蓮井氏のあつかう舞台設定の「多彩さ」についても(掌編集という本の性質を考えてなお)注目すべきものがあります。先に書いた自殺志願者の「末期の眼」だけでなく、老人と子供の対話や、神話、ロー・ファンタジー、近代的兵士の葛藤など……主題の自在な変奏のうちに作家自身の誠実な問題意識が立ち現れるという点では、あるいは芭蕉の記した「不易流行」の精神にも通ずるとすらいえるかもしれない。大作をひとつひとつ物しながら階段を昇るように成長してゆく総合的知性があるとすれば、それとは反対に、絶えざる変化のうちに恒久的なものを見出そうとする分析的観察もまた、ひとつの文学的想像力のあり方だと言ってよいでしょう。(むろんそれらは両立するものですが)

ちいさな死

やや抽象的になってきたので、作品そのものに眼を向けてみましょう。『風を掻き分けて』という掌編について。
A5用紙にして5頁ほどの、このごくごく簡潔な物語において、主人公は「新天地での適応」という課題に晒されています。飛行機の航路の真下(伊丹あたりでしょうか)にある部屋へと引っ越してきた会社員の主人公は、その音を聴きながらふと「あの飛行機に乗ってゆけたら」と考える。
 
それはおそらく、たんなる転勤のストレスからの逃避欲求にとどまるものではない。
​それまでとは根本的に異なる価値観に馴致しきってしまうこと、自己を文脈に完全に埋没させてしまうことへの不安が、彼をして当の文脈そのものからの離脱を憧れしめている。つけっぱなしのテレビから流れてくる音楽に興味を惹かれ、一時的にはそこに没頭してもみるのですが、その音も、飛行機の轟音によって否応なくかき消されてしまう。彼は「異郷にひとり投げ出されたままの自己」へと引き戻される。
​
とはいえ、彼はすぐに行動を起こすわけではありません。入社してからの経験と歳月が、彼に踏みとどまる力を与えていた。彼は新環境への違和を、自分にとっての「学習」の余地ないし「成熟」の可能性として捉えるだけの余裕があります。積極的におのれを変えてゆくという道もあるのではないか、就職したばかりのころの自分もそうだったではないか……?しかしながら、選択肢を吟味するゆとりも、判断についての確信も得られないなかで、ただ行動ばかりを迫られるのが、現代人であり組織人である者の哀しい宿命です。彼は決断するよりむしろ迷い、なかば自暴自棄になっていると語られる。
画像

こわくなんかなくない

そうしたとき、主人公の拠りどころとなるのは「格闘技の試合」を見ることです。
ある実用書に勇気が示される時は必ず恐怖を伴っていることが書かれてあって確かに頷けることだと彼は思った。だからこそ、その勇気が示される試合を見ることは彼にとって重要なことだった。(p.3)
実際に自分が当事者となって、体格の大きいものからの攻撃を受けてなほ、力を振り絞って反撃できるか考えると、とても自分にはそんなことはできないのではないかと思った。だからこそ、負けはしたがこの挑戦者の闘う姿勢が彼の記憶に強く残ることになった。(p.4)
これらの文章はなかなか興味深い。つまり、彼が格闘技の試合を観るとき、それはかならずしも格闘家たちの「勇気」を見たいがためだけにするのではない。むしろ、「勇気」が示されるときに必然的に随伴する「恐怖」の手触りをこそ、彼は求めている。その手触りがリアルであればあるほど、彼は選手たちの心理とより強く同調することができ、闘いの勇気を自らに引き受けることも可能になる。逆に言えば、勇気すらもけっして恐怖を消滅させることはない。
画像

蝶のように、蜂のように

この――「恐怖」を探り当てるメルクマールとしての「勇気」という――考え方は、氏がくりかえし扱っているテーマ「死と生」とも決して無縁ではないように思われます。
ここでいう「勇気」が、行動によって環境からのフィードバックに身を晒すことであるとするならば、それはおのれの従来の価値観を自明視することをやめ、その正当性を経験の審判に委ねるということでもある。だからこそ勇気は必然的に恐怖を伴う。それは絶対性の喪失であり、すべてが不確実性へと退却してゆくことの不安、つまり一種の死の恐怖なのです。

​あるいはこのように言うこともできる――われわれは、自己の生が〈生きるに値する〉という感覚を、生の現実からいきなり引き出すことは難しい。むしろそれが死によって規定されているという不可避の事実から出発するほうが、〈なんのために生きるのか〉という問題を扱ううえではイメージしやすいのではないか、と。「自分はいつか死ぬ」というテーゼを立て、そこに順接「だからこそ」か、逆接「それでもなお」かを続けたとき、はじめて「これこれこのように生きる」という判断が「意味」を帯びてくる。死への恐怖が根深いものであればあるほど、生に対する真剣さも弥増しに増す……操作不可能なものの操作不可能性を認めたところから始まる認識を、われわれは「覚悟(Entschlossenheit)」などと呼んだりしますが、それは叩きのめされ時間切れになってしまう恐怖に直面しながら、「だからこそ/それでもなお」一歩引いて守りを固めるか「だからこそ/それでもなお」一歩進み出て反撃を加えるかの決断を迫られるボクシング・チャレンジャーの「勇気」ととてもよく似ています。

世界の回復

こう書いてくるとやたらに悲壮な小説であるかのように見えますが、しかしこの作者はペシミストではありません。
「それでもなお」新天地に踏みとどまり、そこでの暮らしに慣れることを選んだ主人公は、ふとしたことからいつも見上げていた飛行機に乗って実家に帰省することになります。空の旅は思ったより到着が早く、誰もいない家で彼は自分が被った変化について思いを馳せる。
そのような体験をしたのち、自分が変わっていくのか行動を振り返ってみるのだが、根は変わっていない気がした。適応とは、その場での対応する変化であって人自体を丸ごと変えていくものではないのだろう。しばらくすると、玄関の閉まる音がして、彼は家の階段を降りた。皆が帰って来たのだ。(p.6)
ひとたび勇気を出して、環境に対して自らをひらいたからといって、過去がすべて無に帰すわけではない。勇気が限りなく死に近づくことだとしても、究極においてそれはやはり生の営みなのです。変わるものもあれば、変わらないものもある――むしろ世界がそのようにあるという事実だけは、いつまでも決して変わらずにあなたの帰省を迎えてくれることだろう……読み終えたときの味わいはとても爽やかです。
(下)に続く
0 コメント



返信を残す

    AUTHORS

    文芸サークル習作派の活動情報やコラムをお届けしています。

    Entries

    ARCHIVES

    1月 2022
    11月 2021
    5月 2021
    12月 2020
    11月 2020
    5月 2020
    3月 2020
    11月 2019
    1月 2018
    12月 2017
    11月 2017
    5月 2017
    3月 2017
    12月 2016
    11月 2016
    10月 2016
    8月 2016

    CATEGORY

    すべて
    久湊有起
    石田幸丸
    同人誌評
    文学フリマ
    文芸時評

    RSSフィード

© 2022 Etudism.

当サイトに掲載されている内容の一切の無断使用・複製を禁じます。

  • 表紙
  • 習作派について
    • 四年目の習作派について
    • 五年目の習作派と『筆の海 第四号』について
  • 同人
    • 久湊有起
    • 石田幸丸
  • 同人誌について
  • ブログ
  • 通頒