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同人書評:【永久小説機関】より『NEWS PEPPER』

11/26/2020

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​文学フリマ購入本レビュー、第二回目は永久小説機関・古鳥にわかさんの『NEWS PEPPER』について
​書いていこうと思います。
 
当日のブースがお隣だったというご縁から終盤に買わせていただき、先日古鳥さんからは私たちの『筆の海』第一号について感想ツイートをいただきました。
しっかりと読み込んでご感想をいただき、大変感謝しております。また文フリでお目にかかれる日を楽しみにしております。
 
 
 
さて、今回レビューする『NEWS PEPPER』はフリーペーパーです。購入させていただいたのは『AQED』という冊子で、どちらも大変楽しく読ませていただきましたが、著者一覧に古鳥さんのお名前がなかったこと(恐らく別名義で書かれている?)、一番印象に残ったのが『NEWS PEPPER』だったことから、勝手ながらこちらについて書こうと決めさせていただきました。
画像




というのもこの『NEWS PEPPER』、かなりのくせ者なのです。
 
 
 
私たちが作品を読むとき、「この部分は誰々のオマージュだな」とか、「ここはだいたいこういうことだろう」なんてことを考えながら読んだり、そうでなくても何かしら自分との共通点を見つけ出しながら進めていくものだと思います。
仮に全く新しいジャンルの文章を読んだときでさえ(最近では村田沙耶香さん『コンビニ人間』などでしょうか)、その展開の珍しさに高揚しながらも「納得感」のようなものを見つけ、それをきっかけに没入していくことで面白さを発見します。
 
 
 
例えば、ストーリーの中で誰かが銃で撃たれたとします。一人称視点でその人物を描写するとき、よく使われている表現の一つに、
 
「痛みはない。ただ衝撃があり、腹部が熱かった」
 
のようなものがあります。


現代日本で生活している人で銃で撃たれたことのある人はだいぶ限られていますので、この描写に「たしかに!わかるわ〜熱いんだよね!!痛いとかじゃなくってさ!!」なんて感想を抱く人は少ないと推測できます。
しかしながらこの表現には妙な納得感がありますよね。紙で指を切ったときに感じる鋭い痛みと、熱せられた鍋に触れてしまったときの反射反応が似ていることだったり、その他色々な《身近な経験》から、私たちは経験していないことを想像し、それにリアリティを見出します。だからこそ小説その他の芸術には「想像力」が求められるのであり、「想像力」に感銘を受けるのだと思います。
 
 
 
しかし『NEWS PEPPER』における「納得感」は一切と言っていいほど存在しません。


 
主人公である佐藤マルクス三世は休日の朝、新聞の訪問販売を受けます。訪問者の頭はカマキリであり、しかし佐藤は驚くこともしません。なぜなら前日には六法全書の頭からの勧誘を受け、その前日には鯖頭から新聞を買わされていたからです。加えて買わされた「新聞」はおよそ新聞ではなく、一面に「勝訴」と書かれたノートであったりアジの開きであったりと全く要領を得ません。結局佐藤はカマキリ頭からも新聞を取ってしまいます。カマキリ頭の「新聞」とは一体なんなのか……。
 
 
 
といった筋書きなのですが、この筋以外に独特な表現や明らかに不要な文が数多くあり、作品の異様性を底上げしています。
加えて後述しますが、冒頭の一文の表現は異彩を放っており、この熟語の存在意義を僕(久湊)は最後まで解釈できませんでした。これに関しては完全に白旗です。もし著者の古鳥さんがこのレビューをお読みになる機会があり、お気兼ねなければ教えていただきたいくらいです。
 
 
 
※ 毎回ながらネタバレを多分に含む書評となりますので、未読の方は読後にお読みいただくことを推奨します。



​

『オチ』の存在が全てを裏切る



​

​前述の通り、『NEWS PEPPER』はかなり異質な構成をしており、それだけで一読の価値はあるのですが、
強いて近しいジャンルを挙げるのであれば、いくつか思いつきます。
それに沿って『NEWS PEPPER』の読み解きを実践していこうと思いますが、
その最大の障害となったのが『オチ』の存在でした。
 
 
 
いわゆる「物語」には起承転結であったり序破急であったり、呼び名は違えど展開に相当するものが存在し、それによってテンポやリズムが生まれます。これが読みやすさや面白みに直結しやすいものであるからこそ体系化されていると考えることができ、多くの作品がこれに則っています。
 
 
 
しかしながらこういった構成を廃した文学も確かに存在しています。現在は100文字で完結するマイクロノベルというジャンルも存在しますし、同人界隈では「やおい(山なしオチなし意味なし)」という造語も存在します。
(ちなみに「やおい」は当初女性向けコンテンツの自虐的なジャンル定義でしたが、最近では幅広く肯定的に用いられています。)
 


では『NEWS PEPPER』は「やおい」なのか、という問いについては、即座に否定することができます。
淡々と理性的に展開される(非)日常の風景、という面では「やおい」的要素を満たしていると言えます。あらゐけいいち氏の漫画『日常』のような到底起こり得ない展開が羅列されるような作風もその一つと解釈できます。
 
 
 
しかし『日常』において『オチ』と呼べるものはあまり見受けられません。ギャグ漫画として非常に秀逸な作品ですが「これが『オチ』です」と断言できるものがないシュールな世界観で笑いを引き込む作りになっていると考えられます。詳しくは後述しますが、シュールさと『オチ』は親和性が低い、ないしは『オチ』もシュールでなくてはならない、という縛りがあるように感じられます。
 
 
 
しかし『NEWS PEPPER』の最終部分は、
 
紅茶に合うのだから、それは砂糖のようである。砂糖に違いない。カマキリと砂糖になんの関係があるのかと佐藤は思案した。砂糖はサトウキビやてん菜から作られるはずである。
その瞬間、佐藤は所謂砂糖と呼ばれるものが何だったのかを理解した。
ちょうど、お湯が沸く。佐藤はダージリンにその粒を溶かして一気に飲んだ。
 
「……これ、塩だ」


​となっています。
 
 
 
『オチ』が存在しています。キッチンでよくある小さな事件です。シュールといえばそうかもしれませんが、シュールの言葉の定義が広すぎるため確かではありません。『日常』の『オチ』で使われるような、背中から羽が生えたり学校が前触れなく爆発したりと言った「非日常」性は見られません。そのためには塩ではなく「青酸カリ」や「小惑星」である必要があり、意味がわかってはいけないのです。
 
 
 
逆説的に考えると、『NEWS PEPPER』は『オチ』以外が非日常、『オチ』のみが日常、という構成になっていると見ることもできるかもしれませんが、その目的のためには「その瞬間〜理解した」の文章が邪魔なように感じます。直前の佐藤と砂糖が連呼される流れから「さとう」にまつわる「理解」であることが推測されますが、ここで掛け言葉のような常識的な構成を挟んでしまうと「塩」のシュールさが半減してしまうことは明白です。
加えて「理解」することはシュールさの敵であり、あえて「理解」という単語を使う説明ができません。
 
 
 
かなり緻密に描写がされている作風からも古鳥さんがよくよく計算されていることが見て取れるため、こういった無駄を許容するとは思えません。こういった観点から『オチ』の存在が解釈を阻んでくるという感想が、読後第一に僕の中で湧き上がってきました。
 
 
 
しかしながらせっかく読ませていただいた文章を「よくわからないな」と片付けてしまうのももったいない。なので、以下四つの観点から四回読み直してみた解釈を付させていただきます。


​

​

①「ナンセンス」としての読み





前述の通り『オチ』が許容される文学を軸に考えたとき、まず挙がったのはファンタジーという見方でしたが、これはすぐに否定できます。Wikipediaによると、
「ファンタジーに登場するような奇妙な生物、不思議な世界観、魔法、人語を喋る動物といったものは、それがなぜその作品世界に存在するかが論理的に説明される」
とあり、超自然、超現実的な存在の論理的説明が付される必要があるとしています。
 
 
 
また類似ジャンルとしてSF(サイエンスフィクション)がありますが、こちらも同様科学技術や物理法則を論理ルールとしてプロットベースが成り立っているため適切ではありません。『NEWS PEPPER』の登場人物は全編を通して論理的な説明とは無縁です。
 
 
 
そこで次に出てくるのが、カミュやカフカ、キャロルに代表されるナンセンスというジャンルです。
ナンセンス文学とは、その名の通り「意味をなさないこと」をユーモラスに捉える文学です。意味のあるものと無意味なものを合わせたり、意味のある言葉同志をつなげて無意味なものにする技法が用いられます。
 
 
 
「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」ともにファンタジーと誤認する傾向がありますが、ルイス・キャロルはナンセンス作家として著名です。
前述の定義によれば、説明なく登場する超自然的な人物・生物はファンタジーの住人ではないためです。
六法全書や鯖の頭をしたセールスマンはもちろん説明されることなく登場していますので、この区分けですとナンセンス的な読みをするのが最も適当ということになります。
 
 
 
しかし『NEWS PEPPER』をナンセンス的に読んでいくと、またもや壁に行き当たります。
 
 
 
ナンセンス文学の面白みというのは、「意味の存在しないところに意味を探し求めてしまう人間性」を利用しています。
同じ「虫」が出てくるナンセンスの代表作、カフカの『変身』にしても、ある朝突然に巨大な「虫」に変身していたグレゴール・ザムザという青年が虫になったことで家族から見放され、最後は孤独に死んでゆきますが、ここでいう「虫」とは何なのか?という考察は現代でも後を断ちません。
 
 
 
「カフカは表紙の挿絵に虫を描くなと注文をつけたらしい。つまり、実際は虫になってなどいなかったのではないか?」
「ドイツ語の虫を表すUngezieferの語源は『役に立たないもの』だ。文学に傾注していたカフカ自身が家族から疎まれていると感じ書いた自伝的小説なのでは?」
 
 
 
などと尤もらしい考察がいくつも存在し、そう言った意見を読むのもカフカの楽しみ方の一つであると僕は考えます。
しかし書かれていることのみを見れば、「グレゴールは虫になった」という一点だけなのです。そこには説明はなく、淡々と成り行きが書かれているのみです。それに対しああでもないこうでもないと想像を巡らすのは読者の仕事であって、そこに価値が見出されています。
 
 
 
小説家は、小説が手元を離れた後に「読み方」をコントロールすることはできません。「こう読んでほしい」と思って書きがちな小説だけに、材料だけ与え料理は客に任せるような書き方をすることは非常に勇気のいることだと思います。今でこそ不条理文学というジャンルがあるものの、そこを切り開いた作家は途方もない覚悟を以って臨んだことでしょう。
 
 
 
少し話が逸れてしまいましたが、カフカ然り、ナンセンスの作家の作風には共通点が存在します。それは「意味、文法、表音、文脈等何らかの形で理解可能である」ということです。
一見見慣れない単語が用いられている場合にも、多くは文法的に品詞が推定できたり、文脈的になんらかの意味を持つことが想定できたり、あるいは言葉遊びによって見慣れた単語が組み合わされていたりするのが常です。
 
 
 
つまり、言葉の上での「ナンセンス」は「意味のないもの」「馬鹿げたもの」を指すものの、ナンセンス文学が創造的であるためには知性的な厳密と方法とを必要とします。単なる出鱈目な文章、わけのわからない文章が必ずしもナンセンス文学となるわけではありません。
 
 
 
このことを達成するために、ナンセンス作家はおおよそにして三人称視点を用いたり、極めて理性的・常識的な一人称の語り部を起用するなどしてナンセンスなものの異常性を際立たせます。読者の常識的な尺度を代弁するフィルターとなるわけですね。「構造のおかしみ」を廃し、異常に最大限フォーカスすることで読者の理解を促し、想像を煽るわけです。
 
 
 
この点から見ると『NEWS PEPPER』の主人公佐藤マルクス三世は、およそ常識的な尺度を持ち合わせていません。カマキリが訪ねてきても会話をし、アジの干物や勝訴の文字で埋め尽くされたノートが投函されていても不平を言うでもありません。それどころか干物は食卓に並ぶし、ノートは壁に貼られてしまいます。
 
 
 
極めつけは以下2文です。

カマキリ頭は頭以外人間である。指は五本あるし、手首は肌色のようだ。靴もスーツも人間用である。人間用でないスーツを佐藤はテレビで見たことがない。部屋にテレビがないからである。
カマキリ頭は恭しくお辞儀をした。頭を下げたまま微動だにせず、立ち去ろうとしないので佐藤は扉を閉めた。そしてのぞき穴から覗いていると、カマキリ頭は廊下の欄干に手をかけたかと思うと、そのまま飛んでいってしまった。




カマキリ頭が日本語を喋っている時点で気にすべきではないかもしれませんが、頭以外人間の生物が羽なしで飛び去ると言う情景はなかなか想像できません。スーパーマン的に飛んだのでしょうか、しかし佐藤はその異常にも反応しませんでした。
 
 
 
およそ理性的でない主人公によって観測される異常な世界、という構造は、「構造のおかしみ」に面白さを求めるものであると推測されます。佐藤とグレゴールの間には大きな隔たりがあり、その溝は埋めようもありません。
 
 
 
もう一点、ナンセンスとの差異を挙げるならば、『オチ』の部分でも書いたような小さな関連性が随所に見られることです。砂糖と佐藤の掛け言葉であったり、六法全書からは勝訴のノート、鯖からアジの干物が届くと言う関連は「構造のおかしみ」こそあれ、ナンセンスにしては「近すぎ」ます。
人間の頭だけがカマキリ、という異常と比べると均衡が崩れており、意味(sense)を見出さないほうが難しくなっていると言えます。
 
 
 
このような観点から、ナンセンス文学ではないと僕は考えます。


​

②「シュルレアリスム」としての読み




ナンセンスの近隣のジャンルであると言えるシュルレアリスムではどうでしょうか。
 
 
先ほどから「シュール」という言葉を何度か使っていますが、現代日本における「シュール」は「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味合いで使われており、いわゆるシュルレアリスムとは似て非なるものです。
シュルレアリスムは本来的には「無意識の探究」を主眼としておこった芸術運動で、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』に端を発します。初期にはエリュアールに代表される自動記述が用いられ、薬物を使用したトランス状態での思考の描出など、「理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」を目的とするものです。
 
 
 
この定義からも明らかな通り、理性的にコントロールすることが求められる「ナンセンス」と異なり、「理性」をはじめとする先入観から限りなく遠ざかったものであると定義できます。では、ナンセンスではないと分かった『NEWS PAPPER』はシュルレアリスム文学なのでしょうか。
 
 
 
のちに出されるブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』には、


​
[……]その間違いは、紙の上にペンを走らせるがままにさせることで一般的に満足し、彼らのうちでその時起こっていることをほんの少しでも観察することのなかったこれらのテクストの大部分の作者たちの側からのとても大きな怠慢によるものなのだ――この二重化はところがよく考えられた記述のそれよりも把握するのが容易で考察するためにあたってより興味深いものなのである――[……]
(福田拓也:『エリュアールの自動記述』水声社、p48より引用)
 



とあります。
​当初のシュルレアリスムとは、「内部での議論の余地のない紋切り型の出現」を嫌ったブルトンらによってもたらされたものであり、極めてシニフィアン的と言えます。思いつく言葉をただ書き留めるにとどまる文学はシニフィエを黙殺します。なぜならシニフィエは否応なく「紋切り型」を呼び寄せ陳腐化させてしまうからです。
 
 
 
ナンセンスの持ち味である意味のないところに意味を見出すという行為は、シニフィエを黙殺するという点でシュルレアリスムと類似します。シニフィアンとシニフィエの繋がりを断絶し、シニフィアンのみの、形だけの世界を形成します。異なるのは「理性」の介在です。
 
 
 
「理性」とはすなわち「主体的観察」であり、周到な理性は「必然」を生みます。のちにシュルレアリスムの一部として現れるデペイズマンという考えは、この「必然」を嫌ったが故にもたらされたものと言えます。
 
 
 
「偶然による二つのものの接近・出会いによって現実の中に潜む超現実が露呈し不可思議(驚異)が出現する」と言い表されるデペイズマンはマグリットやエルンストなどに代表され、この「偶然性」による驚愕、というところに主軸が据えられています。
 
 
 
「現実の中の超現実」という表現は佐藤マルクス三世とカマキリ頭の邂逅と重ねて見ることができるかもしれません。販売員の訪問は偶然であるはずですし、本来主人公がツッコミを入れる部分を三人称視点の場合のように読者に委ねていると考えることは可能です。
 
 
 
しかしながら、根本においてシュルレアリスムは「理性」の存在を許しません。デペイズマン的な考えにおいても全ては「偶然」でなくてはならず、ここでも「構造のおかしみ」は否定されます。『NEWS PEPPER』は象徴的な超現実的できごとを描写しているというよりも、緻密に記述された理性的掌編であると言え、やはりシュルレアリスムの定義から外れます。
 
 
 
加えて、ナンセンスでは許容される現実との乖離する描写もいくつか存在します。
例えば、

[……]ただ、佐藤はカマキリ頭の目が複眼でなくて良かったと思った。半透明の目はどこを見ているのかよく分からなかったが、おそらく自分をじっと見ているのだろうと理解出来た。だからこそ、複眼に一斉に見つめられなくて安堵した。[……]
(まるで虫のようだ)
佐藤は思った。[……]



ご存知のように、カマキリは複眼を持つと知られている昆虫です。確かに人間でいう眉間の部分に三つの単眼も備えていますが、目立っているのは二つの大きな複眼です。ナンセンスの領域では事実と異なる無意味な描写とすることができますが、現実に根ざすシュルレアリスムでは完全に不要な表現です。



不要という意味においては、ブルーマウンテンとダージリンに付けられた「ジャマイカ産の」「インドの」という説明も不必要です。ジャマイカ産以外はブルーマウンテンと呼びませんし、産地を聞かれて答えているのですからダージリンだけで充分条件です。
 
 
 
そしてカマキリの頭を持つ人間のような生物を前にして「まるで虫のようだ」という感想を抱くのも現実感はありません。「まるで」の後には比喩がくるのが常識的用法であり、「虫」の使用はナンセンスの領分です。
 
 
 
もちろんこの文を以ってみても「構造のおかしみ」は遺憾なく発揮されています。カマキリ頭を眼前に目の構造がどうかということに言及しているくだらなさは間違いなく面白い要素です。しかしこと掌編全体を通してみたときの存在理由は、ナンセンスでもシュルレアリスムでも説明できません。



​

③パスカル的「狂気」としての読み





理解できないもの。それは狂気です。
人間が理解できないのは人間が狂気じみているからであり、狂気じみていない人間も別種の狂気から見ればやはり狂気じみているものです。
パスカルあらわした狂気とは、現在の狂気の意味合いよりももっと広く深いものだったのかもしれません。
 
 
 
『NEWS PEPPER』を狂気の文学として読んでみるのはどうでしょうか。現実とは離れた表現や矛盾、非常識な言動も、これでしたら強引に読み解くことができそうです。なんとなくですが、書き振りを見るに狂気をポジティブに捉えていそうな気もします(これは完全に主観ですが)。
 
 
 
パスカルを研究し西洋近代哲学の理性主義に批判的な光を当てた人物の一人にフーコーがいます。彼はパスカルの言う「別種の狂気」を理性だとし、「理性と狂気は相関的である、もしくは置き換えが可能である」「狂気は理性の諸形態の一部である」と言う言説をもたらしました。理性が狂気に内包されるのではなく、狂気が理性に内包されていると言うのです。
 
 
 
狂気と理性の相関という点に絞って考えみると、両者の間のなんらかの交通をカマキリ頭と佐藤の対話という形で表現しているとみることができそうです。「理性>狂気」という構図ですから、佐藤の一部分としてのカマキリ頭や、六法全書、鯖ということができ、また理性も狂気の諸相の一つという意味合いで佐藤自身も意味のない言い回しや矛盾という狂いを生じている、と捉えることもできます。
 
 
 
17世紀後半になると次第に理性は狂気を自らから切り離し、封印するようになる、とフーコーは言い、その発端となったのが哲学におけるデカルトの存在だったと言います。パスカルによって説かれ、デカルトによって分たれた狂気と理性の交通をフーコー的視点によって回復せしめた文学、という見方をすれば、一定の成果があるのかもしれません。
 
 
 
ようやく読み解けたか、と胸を撫で下ろして再読し、また壁が現れます。



​

「一周回って六階」のおかしみ





「構造のおかしみ」と作風を、少々乱暴ながらに狂気という切り口から結合することに成功したかに見えた書評(そう言えばこれは書評でした)ですが、ここに来て説明しきれない点がひとつあります。
 
 
 
冒頭の段落です。

「新聞……取って……頂けませんかァ」
 土曜日の翌朝三十一時八十三分、即ち日曜日の八時二十三分、佐藤マルクス三世はインターホンに反応して訪問者を出迎えたことを後悔した。ここは姫路県兵庫市の一角にあるマンションの一周回って六階である。
 
狂気を表すにあたり理解しにくい言い回しや現実的でない表現をするのは先述の通り許容されます。日時の言い換えにしても二十四時間制ならぬ六十分制をオーバーした書き方をしたとして「狂気」であれば済むし、姫路県標語市というベタな言い回しも「狂気」の守備範囲、現代日本のマンションの一室に王族のような名前の人物が住んでいるのは狂気というまでもなくこのご時世実際あり得る話です。
 
 
 
しかしこの「一周回って」という熟語がとにかく異彩を放っています。「誰が」一周回ったのか、「なぜ」一周回ると六階なのか、一周回らなかったら何階なのか。その全てが不明です。その前の言い換えや創作地名などとは、なんというか次元が違います。
 
 
 
存在することで強制的に意味不明にしている熟語であり、なければ意味は通ります。「意味なんか通らなくても狂気の小説なんだから問題ない」という反駁もあるかもしれませんが、全編を通して意味が全く通らない箇所はここだけであり、そもそも上記の狂気を補完する文学であるという役割が正しいとするならば、「狂気は理性の諸相の一つ」であるため、客観的に意味の通らない文章は何の意味もありません。
 
 
 
僕の日本語の取り方がおかしいのかもしれない、と思い数カ所切るところを変えてみたり、慣用句的な表現ではない可能性を視野に入れたりもしました。「一階から六階までで一周する急勾配の螺旋階段」というのが考えた中では一番しっくりきましたが、いざ計算してみると仰角168°という階段というよりは梯子のようなものが出来上がってしまい考えにくい結果となりました。(六階までの高さを15m、階段の直径2m、内径1mで計算)。
 
 
 
これだけ緻密に練られていそうな書き振りで、ここだけ理解不能というのは考えにくい。おそらく何か意味があるんでしょうが、僕にはわかりませんでした。前半で書いた白旗はこの部分です。もしご存知の方がご覧になったらぜひご教示いただきたいです。



​

「全くあたらしい文学」という整理





ここまであらゆる角度から適切な書評をしようと多面的に解釈をしてきましたが、どれも何か物足りない結果となってしまいました。
 
 
 
逃げるような形にはなってしまいますが、『NEWS PEPPER』はきっとあたらしい文学なんだと思います。あたらしいものにはあたらしいなりに、何か共通点を見つけようとするのが人間の好奇心であるというのは冒頭に書いた通りですが、
『NEWS PEPPER』は色々な「におい」のする作品だと言えます。
 
 
 
ナンセンスのような書き出し、シュルレアリスムのような登場人物、理性的で非常識な主人公。
真の狂気とは理性的なものだ、とは石田の言ですが、そのように色々な要素を取り揃えた「あたらしさ」があるように思いました。
 
 
 
重ね重ねになりますが、非常に楽しく読みました。
​巻末を見ると、何と一次創作は今回が初めてとのこと。今までは二次創作で長く執筆されていたようです。僕は二次創作の経験がないのでこの点で語れる口は持ち合わせていないのが残念ですが、すでに次の原稿にすでに着手されているみたいですので、次回も楽しみに待ちたいと思います。
できることならこのテイストが長編だとどうなるのかを見てみたいですね。危ういバランスが均衡するのか崩壊することが成功なのか……
 
 
 
 
 
長くなってしまいましたが、今回はここまで。
 
次回は文フリ大阪の購入本のレビューを(やっと)書きます。

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