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文芸書評:【ラドン】より『上陸』

12/4/2020

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月並みですが、早いもんで12月ですね。

いよいよ迫る年波に対抗するべく(?)地元ヤンキーがよく着てる「着る毛布」ってやつを買ってみましたが、確かにあったかいものの顔と手先だけはどうしようもなく冷えるので、結局ファンヒーターを解禁しました。ヤンキーもなかなか苦労しているようです。



​少し間が空いてしまいましたが、第4回目はラドン「上陸」レビューです。


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装丁
​

画像

​暗く荒らしい海を背景に中央で分割された蛍光色の「上陸」の文字。
これでもかと目を惹くデザインです。

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​よく見ると背景は油絵のようです。白波が真ん中に配置され、手前の岩べりにも力強く重なっている。粗野に見えるタッチですが、波間の色の重ねや奥から迫ってくる何か(おそらく『ラドン』)のあらわれから、その細かな筆遣いが見て取れます。なんかこううまいこと言葉にしたいんですが「大胆かつ繊細」なんていう常套句しか出てこないのがもどかしい。


画像


背表紙と裏面は文字の蛍光色で統一され、ロゴの上に一筆書きの足跡が付されている、というか踏まれている。とても凝った作りです。「新しい」という言葉がしっくりくるデザインですね。すごいなあ。
表紙を担当された(と思われる)「安倍志緒里」さんについてちょっと調べてみましたが、この御名義では検索には引っかかりませんでした。もっと他の作品も見てみたい……。
 
 
 
さて、毎度のことですが同人誌ですので、全編について書いているといつまで経っても書き上がらず、気づいた頃には次の文フリでした、となりかねないため、一編に絞って書いていこうと思います。






​
​

直嶋犀次『Slip and Slips』




文フリ会場で直接買わせていただいたご縁ということもあり、今回は直嶋さんの作品について書きたいと思います。



​当初僕はいつものように、あらすじを書かせていただきつつ書評を進める、という形式で書こうと思っていました。読み終わった「上陸」を机に伏せ、ノートのページをめくってボールペンをノックし、いざ書き始めようとなかぐろを1つ打って、何から書けば良いのか分からなくなりました。
 
 
 
『Slip and Slips』では、何も起こりません。私小説ではないものの、取り立てて事件が起こるわけではない。ナンセンス的展開があるわけでもない。難解な構造や文章があるわけでもない。主人公を通して、彼女の1年間を追っていく、言ってしまえばそれだけの話です。今まで書評をあげてきたような作品とは決定的に違う、そう感じます。
 
 
 
「面白かった点は」「強いて挙げるなら改善点は」というような感想を書いても、なんというか空虚なのです。しかし「印象に残ったシーンは」と問われば、それは間違いなく答えられる。「面白いのか」と聞かれるまでもなく「好きだ」と叫ぶ、そんな類の短編でした。
 
 
 
どう書くか決めかねましたが、ぽつりぽつり思いつくことを書いてみようと思います。まとまりのない文章になってしまったらすみません。


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画像


​
「重なり」の文学



Tinderで浮気をした女
相手の年下の女の家に通うようになる
夏の終わりを最後に彼の家へ行くこともなくなり
秋が来て、冬を過ごし
春のはじめに元彼からプロポーズを受ける
婚約を受け、年下の男に連絡をとると
彼はひとまわり大人びて見え
彼との会話の中で新入社員の女の子のことを思い出す




あらすじを無理に書き出すとすれば、本作はこのように要約されます。
しかし、前述の通りこの筋には何ら意味はなく、事実を主人公の目線で追うための標でしかありません。本作の魅力を一言で言ってしまうのならば、それは「重なり」です。
 
 
 
「事実があるのだから、理由があるはずなのだ」なんて永井均みたいなことを言う主人公の女性から語られる、余計な連体修飾のない、切れ味のある文章。熱量を持たない文体で引かれた白糸に、上品な質感の横糸が無数に通され紡がれる絹織物のようなストーリー。通される横糸には全て、「ズレ」という共通点があります。
 
 
 
主人公が会社で扱う会計システム。複雑怪奇に書き表されるこのソフトは、全ての用語が英語で表記されています。単語の専門的な意味がわからなかった彼女は全てGoogle翻訳に流し込み、一字一句意味をノートに写しますが、同期社員にそれを訂正されることになります。​

「これ、ひとつめは伝票、だと思う」と軽く言うこの同期はいい大学を出ていた。それから彼は笑って、「次のは突合、だよ。和解って何さ。誰と和解するのよ」
ひとつめは「slip」、もうひとつは「reconciliation」という単語への言及です。彼女は「slip」を「ズレ」、「reconciliation」を「和解」と訳していました。
 
 
 
モノローグの終盤、印象的に配置されたこの秀逸なエピソードは、奇妙な引っかかりを残します。いや、それまでの語りの中にも引っかかりはあるものの、また異質なのです。この「ズレ」「和解」という誤訳がこの文章を小説たらしめているそのものであり、もっとも文学的だとも言えます。
 
 
 
高校生の頃の荒れていた自分、大学で周りにあわせてギャルになった自分。そんな自分を受け入れてくれた「涼くん」、彼を裏切るようにして出会った「門脇くん」。バスケをする子供たち、彼らの母親、淡々と過ぎていく日々。いつの間にか変わっている周囲(世界)、取り残されていく自分。そういう「ズレ」がひとつひとつ、主人公の目線に織り込まれてゆきます。



​

コーヒーにミルク、入れる?入れない?



印象に残った描写という観点でいくと、コーヒーに入れるミルクの量についての言及があります。
 
 
 
「涼くん」は就寝前に飲むコーヒーに、ほんの数滴のミルクを入れます。その数滴のせいでよくわからない液体になってしまったコーヒーに、主人公が淡々と考えを述べるシーンです。

そんな少しだけ入れて、コーヒーなんだかカフェラテなんだかわからない状態では気持ち悪いから、私ならもっとたくさん入れて、誰がどう見てもカフェラテなものにするのに、と思う。そしてコーヒーが飲みたいのであれば、牛乳なんて入れなければいい。牛乳を数滴入れた時点で、それはもうコーヒーではない、不思議なものの気がする。もう混ざってしまって、元のわかりやすい状態には戻せないのだから、いっそのこともっと牛乳を入れて、全てを有耶無耶にしてしまいたくなる。私の性格には合わないそういう飲み物を、涼くんは好んでいた。
「もっとたくさん」「もっと牛乳を入れて」と2度も強調していることから、この涼くんの飲む液体に対しての理解できなさが見られます。前述の「事実があるのだから……」同様、主人公の性格を表す描写です。
 
 
 
余談ですが、この理論には僕は否定的です。カフェラテだろうがカフェオレだろうが、単に苦味を抑えて飲みやすくしているだけにしか思えません。風味を楽しむなら牛乳は邪魔で、飲みにくいというならコーヒー豆を挽く資格はありません。ミルクティーやティーラテのように、ミルクを先入することでタンニンとミルクが反応して風味が変化するようなこともないのですから、コーヒーにミルクは邪道です。その前提でどうしてもミルク入りのコーヒー的なものを飲みたいのであれば、本場イタリアの飲み方であるエスプレッソに少量のミルクを入れたカフェラテが許容範囲ギリギリです。カプチーノ?知らんそんなものは。
 
 
 
閑話休題、文字通り「白黒はっきりしたい」主人公ですが、言動不一致な箇所が散見されます。くっついて別れてを繰り返し、現在は別れている「涼くん」とは同棲を続けていますし、別れているにもかかわらず「門脇くん」との行為は「浮気」と断じています。こういった部分には「血の通い」を感じることができますし、「ズレ」というものがここにも顔をのぞかせています。
 
 
 
時系が前後しますが、「門脇くん」はコーヒーにはしっかりミルクを入れます。普通のコーヒーにフレッシュを入れるカフェオレですが、主人公はここに自分との共通点を見ているように思えます。「涼くん」にはない、「新しい」要素です。
 
​

「正しい訳」と「誤訳」



カフェを出て「門脇くん」の部屋に向かうと、部屋に猫がいるといいます。彼女は猫アレルギーです。にも関わらず入室を了承するのは、彼の「新しさ」にそれだけ興味を持っているからでしょうか。
セックスを終えると、案の定彼女はくしゃみが止まらなくなります。そして鼻をかみながら、奇妙な空想が始まります。この部屋に住んでいるのは自分と涼くんで、ずっと前から2人と、それと猫で暮らしてきた――。
 
 
 
この描写、この文脈での挿入、圧巻です。これだけで一読の価値があると言っても差し支えないでしょう。引用しようかとも思いましたが、ぜひこれは文脈の中で読んでほしい。猛烈なリアリティを読者に突きつけ、「涼くん」との「ズレ」、現実と空想の「ズレ」、自分の中の「ズレ」を1センテンスでまとめ、その後の「門脇くん」への接し方への転換点にもなっている。僕が読後一番印象に残っていたシーンです。
 
 
 
登場人物たちとの「ズレ」を感じつつ、それを修正できないでいる主人公を見ていると、あたかもその登場人物たちの方が特異であるように映りがちだと思いますが、本作『Slip and Slips』ではそれが見られません。逆に言えば、一人称視点から男たちを見て、会話が抑えられることで彼らの人間性の要素を排し、変化だけをフォーカスしているように見えます。
 
 
 
このたくらみは成功していて、終盤プロポーズしてくる「涼くん」や、再会した「門脇くん」たちは明確に変化しているのに対し「わたし」は無変化でいるというコントラストが非常にわかりやすくなっており、物語のエネルギーを急激に引き上げてゆきます。
 
 
 
また、ここにきて「reconciliation」が効いてくるのも上手い。

とにかく複雑、怪奇なのだ。同じことをしていたはずなのに、出てくる結果が違ったりする。同じになるはずの数字が、ずっと違うまま、一致しない。
とにかくこのシステムは謎を孕んでいるのだ。内部には、どれだけ強い光で照らしても永遠に暗いままのところがあって、運が悪いとそれがわたしの画面に姿を現してくる、つまりこれは占いみたいなものだ、とようやくわたしが降参したのは、一年目が終わりかけた頃だった。

​会計システムの描写からの抜粋ですが、ここでいう「永遠に暗いままのところ」からはじき出された数字が「ズレ」ている、という構造になっており(なんて書くのも恥ずかしいですが)、「わたし」が「門脇くん」を見ている間に「永遠に暗いままのところ」で変化した「涼くん」がはじき出された結果、唐突にプロポーズを受けることになってしまう、という構図が理解できます。
 
 
 
「突合」とは、字の通り突き合わせです。「涼くん」と「わたし」が突き合わされた結果、「わたし」は結婚することになります。前向きでも後ろ向きでもなく、ニュートラルに。目に見えた変化を彼女は起こしていませんが、「突合」は同じ数値でなければなりません。「涼くん」と同値になることが必要で、もしかしたら彼女も変化していたのかもしれません。変化とは、自覚的でないからこそ振り返って気づくことができるものです。
どうしてあのときのわたしといまのわたしが時間的に繋がっているのか、こうして思い返すと、本当に不思議な気持ちになる。同じ人間だろうか、同じ人間らしい。
 物語前半からの抜粋です。
彼女自身も、もしかしたらそう感じているのかもしれません。



「突合」を正しい訳とするならば、誤訳を担うのは「門脇くん」です。誘いを何度も袖にしてきた彼との再会は、とても和やかなものです。「和解」、というにはアクセントが不足している気もしますが、そういった読みをしたくなる展開です。
 
 
 
また、これは考え過ぎかもしれませんが、ていうか考え過ぎだと思うんですけど、「突合」と「嫁ごう」をかけているのだとしたらこれはもう相当に緻密で、しかもクスッと笑えてしまう無敵の短編かもしれません。まぁ、読みは人それぞれってことで……。
 
 
 
こういった精緻な「重なり」が物語をつくり、また本作最大の魅力だとも言えます。


​

ヘテロフォニー的「重なり」




​「重なり」と聞くと、中高吹奏楽部の僕は「音の重なり=合唱・合奏」を連想してしまうのですが、ミハイル・バフチンは『ドストエフスキーの詩学』において、登場人物たちの独立した人格が「対話」をすることで小説独特な表現を可能にしている、という旨の指摘を「ポリフォニー(多声音楽)」という語を用いて論じています。
 
 
 
彼はトルストイを引き合いに出し、ドストエフスキーがポリフォニー的であるならばトルストイはモノフォニー(単声音楽)的であるといい、その単声とはつまりトルストイ本人であるため、自身の人格に反対する人格をおよそ自己完成から程遠い人物として描く、として批判しています。
 
 
 
この考えに照らしてみると、『Slip and Slips』は「対話」によって成立しているとは言い難いです。しかしながら小説独特の表現には成功していると言わざるを得ない。他の芸術媒体では得られないような面白さが、面白さの方から襲ってくるような感覚が確かにあるためです。
 
 
 
極めてモノフォニー的でありながらその「ズレ」を複雑化させることによって、自らの声を重ねるように織りなす音楽を「ヘテロフォニー」と呼びます。リズムやテンポをほんの少しずらすことで偶発的なポリフォニーを生むものを指し、本作の「ズレ」の構造をもってみると、この表現はまことにしっくりときます。
 
 
 
もっと言うのであれば、この「ズレ」の構図は非常に緻密であることが要求されるため、より多くのファクターをより複雑に組み合わせることで、全体的な響きの厚みを増すことも可能であるように思います。1年で構成された物語の半分、秋冬での展開であったり、異性の登場人物(バスケ少年の母を連想させるなら尚更)が関わってくればそれは達せられるのかもしれませんが、それはひとつの視点においてのみの話です。『Slip and Slips』がほとんど完成されている文学であることに疑いはありません。


​

タイトルについて




いち読者が解題の真似事をするのもどうかと思いますが、『Slip and Slips』というタイトルについて自分なりに考えてみました。
 
単に「ズレ」を言いたいのであれば「Slips」で事足りるはずで、わざわざ2語に分ける必要はありません。また「伝票」という本来の用法が出てくるのも少し考えにくい、となった時に、単数形と複数形であることに立ち戻ってみました。
 
 
 
前者は「わたし」のズレ、後者は「周囲(世界)」のズレ。つまり
 
(my) Slip and (their) Slips
 
とすると、また違った風景が見えてきます。
 
 
 
「わたし」の知らないところで変わっていた「涼くん」が、もしかしたら感じていたかもしれない「わたし」の変化。「門脇くん」を通して、バスケ少年たちを通して、彼女は知らぬ間に変化することができており、それがプロポーズへとつながっていた。そう読むと、この短編は救済の物語なのかもしれません。
 
 
 
最終盤、「わたし」が後輩の子にあの会計システムについて教える場面回想が挿入されます。「わたし」のいうことに相槌をうちメモをとる後輩。
「はい、はい。……ゆうのさん、あの」
「なに?」
「いえ、ありがとうございます。和解じゃなくて、突合ですね。ズレじゃなくて、伝票」
「わたし」はこの後輩に変わる前の自分を見ていた、と解せば、彼女は自分の変化を振り返ることができるようになっていたということが示されます。


そう取らず、生きづらい「わたし」の物語、とも取れるというのが直嶋さんの強みです。こうした読者を「信頼する」書き方というのは僕が長いこと憧れているものなので、非常に勉強にもなりました。読み筋を固定しないという匙加減は、本当に難しいのです。


​

なぜ「文学」をやるのか




はじめに書いた通り、書評を書くにあたり、何を書いたものやら思案しました。なぜ書き方がわからないのかわからないままだったのですが、書き終えたいま、それが少し思い当たるような気がしています。
 
 
 
それは『Slip and Slips』が、いや、「上陸」が、ラドンがとても「文学」しているからなのではないでしょうか。
先ごろ習作派のTwitterでもRTさせていただきましたが、「上陸」の編集後記が公開されています。

文フリ東京お疲れさまでした。最後に今回の「上陸」から、小説よりも感動的だとメンバーに人気の『編集後記』を抜粋しておきます。ありがとうございました。半年後にまたお会いしましょう。 pic.twitter.com/uYd2YzLesw

— ラドン (@maisonderadon) November 23, 2020
​僭越ながら我々こそ現代の真の純文学同人(のひとつ)であると、自負をもってこの小説集を世に送る。
編集・宮元さんの文章です。はっとさせられる。尊大に取られかねないこの文が、小説集の新しさ、強度、若々しさを以て補完されています。蝋燭の外炎に微かに揺れる青さがもっとも熱を伴っているように、静かな慟哭を伺わせるような筆致。それはこの編集後記にも、いずれの短編にも垣間見ることができます。
 
 
 
「この二項に引き裂かれ、部屋の宙で震えながら浮遊」することの苦しさ。それはきっと、常にそれを考え続けることのみで言祝がれるものです。決して時流に媚びることなく、しかしいたずらに脱俗を衒うのでもなく、そうすることが「文学」だと、改めて感じました。
 
 
 
習作派の立ち上げの際、岐阜のアパートの一室でりんご剥きながらああだこうだやっていたあの日。文学に何を求めるのか、誰のために書くのか。そのやりとりが克明に思い出され、書いては出し、また書いては売り、というルーチンに倦み忘れそうになっていた矜恃を甦らせてくれた本でした。
 
 
 
急に自分語りのようになって恐縮ですが、嘘偽りのない感想です。最近はすぐ感傷的になっていかんと思うのですが、おじさんなのでしょうがないかもしれませんね。ぜひ皆様も読んでみてください。他の感想も聞いてみたくなる短編集です。
 
 
 
我々も負けていられません。また文フリでラドンに会えることを楽しみにしつつ(すっかりファンになってしまった)、私たちも「文学」していこうと思います。
 


​
 
 
それでは、編集会議があるのでこの辺で。


​久湊有起(習作派編集部)
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