秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉 僕(石田)が先日たまたまブ○クオフに立ち寄ったとき、思わず「ジャケ買い」をしてしまった本があります。 石黒正数さんの『外天楼』(講談社KCDX、2011年)というマンガです。 よそおいの詩装丁は宮村和生(5GAS)さんという方だそうです。 シンプルなデザインですが、それがコミックスの並びのなかではかえって眼を引くんですね。 写真ではややわかりにくいのですが、表紙カバーには特殊紙が採用されており、シリコンコーティングされたようなマットな手触りです。一方で人物イラストの部分などは透明インクの厚盛になっていて、触感の違いが手に楽しい。 余白を広くとった詩的で内省的なデザインを、紙の工業製品的な質感がうまく中和しています。そこにデフォルメの効いた現代的なタッチのイラストと、タイトルロゴが乗ってくる――都会的でポップだけれど、どこかちょっと切ない、そんな物語性ある装丁になっていると思います。 表紙をめくった「扉」の部分には半透明でつや消しの紙が用いられ、背景のイラストが透けるようになっています。トレーシングペーパー的なアレです。 よくある手法といえばその通りなんですが、このトレーシングペーパー的なアレが作家性をうまく演出しているように思いました。作品の完結性を物質的な面からも際立たせているといいますか。こういう工夫は電子書籍には難しい部分かもしれませんね。 意味という救済そして肝心の作品内容なのですが、こちらもたいへん面白かったです。 なんというか、うまく既存のジャンルの網をくぐり抜けているような印象がありました。 一見して内容を想像しにくいタイトルであり装丁なのですが、それはおそらく計算されたことなのでしょう。「これはいったいなんの話だろう」と思いながら読みましたし、それが楽しかった。 もちろん個別にはSFなりミステリなりの要素を指摘できるのですが、しかし全体としてはやっぱりジャンルに還元できない一種独特な空気感が残ります。そこには物語の展開がわりあいにゆっくりだということも関係しているかもしれない。つまり「日常」のテンポで「非日常(物語)」を描くことで、ジャンル性を帯びさせる物語要素(「殺人」や「ロボット」のような)をそれとして際立たせずに扱うことができる、ということです。 そうしたこともあり、読み終わってみるとエンターテインメント的な爽快感というより、登場人物の体温のようなものが残っている。 このあたりはぜひ読んでみてください。僕個人としては第3話「罪悪」が好きかなあ。 違和感を違和感として描かず、当たり前のものとして貫徹させる表現のことを俗に「シュールだ」と形容することがあるように思います(対義語は「ベタ」でしょうか)。この作品の登場人物たちも、日常生活の地平で些細な違和感を積み上げてゆくという点で、なんとも「シュール」なコミカルさを有しています。 しかし、それだけでは終わらない。違和感を違和感として指摘する視点(=「ツッコミ」?)こそ存在しませんが、この作品は違和感を決して不条理へと投げ出しては終わりません。これ以上言うとネタバレになってしまうので控えますが、このあたりもぜひ読んでみてください。 一点だけ残念だったのは、作中で田舎から都会へ出てきた青年が露骨な方言を使うくだりで、これはいらないだろうと思いましたが、全体としてはやはり、とても面白い作品だったと思います。次作は書店で買わないと。 ちなみに、僕は最後まで読んでから気づきたいへん驚いたのですが、この作品、講談社の文芸誌「メフィスト」で2008年から2011年まで連載されていたものらしいです。 そう言われてみると「なるほど」というか、何気ないようでいてエッジの立った表現であることにも納得のゆくものがありますね。 そうこうしているうちに、11月も半ばを迎えようとしています。 23日(木祝)には1年ぶり2回目となる「文学フリマ東京」への参加も控えており、いよいよ修羅場というところ。ちなみに習作派のブースはB-27です。ぜひお立ち寄りください。 そろそろ編集作業に戻らなければいけませんので、今夜はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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又吉直樹さんの、『劇場』(「新潮」2017年4月号)を読みました。とても面白かった。 と同時に、ちょっと悔しくもあった。 又吉氏は近代文学をよく読んできたと語っています。おそらく、「近代の継承」というテーマが氏の創作にひとつの方向性を与えていることは間違いないでしょう。そして、その問題系は僕自身(石田)にとっても重要なものです。ですから、ほかならぬ僕自身が「夜を乗り越える」ために、この本について書いておこうと思います。 ※以下、本作品のネタバレを含みます。なお、()内のページ数は断りがない限り「新潮」4月号のものです。 あらすじ演劇で成功することを目指して東京で暮らす主人公永田は、沙希と出会い、貧乏ながらも朗らかな恋愛関係を結ぶ。しかし自身の作品が評価されないことを苦にする永田は、次第に沙希に対してぎくしゃくした態度しか取れなくなってゆく。加えて同世代の天才演出家:小峰の存在も永田に焦りを感じさせて……。 「何者か」であろうとする男の苦闘が、男の等身大を愛そうとするヒロインを引き裂いてしまう、そんな哀しいすれ違い――物語としての構造はきわめて近代的で、王道ともいえるものです。しかし、この作品を「手垢の付いた王道をお笑い芸人がちょっとばかり珍奇なセンスでなぞったもの」と評するのは早計にすぎる。その理由はふたつ。
方法論的自覚又吉氏が小説の方法論にきわめて自覚的であることは明白です。 たとえば、中村文則さんの『何もかも憂鬱な夜に』文庫版解説に又吉氏が寄せた文章を要約してみます。
ここでいわれている「垂直」の穴とは主題の追求のことを指しており、「横」の穴とは方法論的な実験のことでしょう。 あるいはモダン―ポストモダンの対比が観念されているといってもよいかもしれません。 無論それは方法論の革新を否定するものではありません(コアな文学マニアと読書に馴染みのない層の両者を説得したいという思いは氏の中に強くあるように思います)が、いずれにせよ、又吉氏がこのように中村作品を評価するとき、やはり氏自身もまた主題を深く掘り下げてゆく態度にシンパシーを感じているのだと推測できます。 そして、作中でもこうした問題意識ははっきりとした形をとって現れます。
僕の苦悩や怨念めいたなにかを世の中に吐き出すためのツールとして演劇を使おうとしている時点で古いのだろうか。演劇は、もっと軽やかなものなのだろうか。(p.25) 「軽やか」というのは主人公がライバル視する小峰にも付されるキー・ワードですが、同時に主人公は「重く」そして「古い」表現を背負うことを表明している。 たしかに、現代においては人間の苦悩を真正面から描くよりも、日常の些細なズレや違和感からイメージを膨らませてゆくような作品が多いかもしれません。「恋人が死んでしまった」だとか「劣等感に悩む主人公が犯罪を犯す」といったヘヴィーで劇的な設定は、直球すぎるがゆえにしばしば忌避される。 にもかかわらず永田は、人間の感情、苦悩、怨念とひたすら向き合ってゆくという、ある意味で愚直かつ時代遅れともいえるような表現を選択するのです。 又吉氏自身、人間の苦悩を正面から扱い、それを解剖してゆく近代文学に共感を覚えたことが読書にのめりこむきっかけだったと述べていますから(『夜を乗り越える』、p.40)、上記の引用部分はほとんど作者の叫びに近いものを感じます。 ですから、王道であること、近代的な問題系をそのまま継承していることは、氏のなかで明瞭に意識されている。それが古臭いものであることを知りながら、しかしそこに新しい命を吹き込もうという意図のもとになされているのです。 呪縛に囚われてあるいは、過去への単なる回帰ではないからこそ、主人公は苦悩するのだともいえるでしょう。 以前、テイラーの芸術論について紹介した記事でも書きましたが、近代において、芸術家による創造行為というのは、しばしば自己発見のプロセスと同一視されました。ですから主人公が舞台芸術を志す若者であることは、自らのアイデンティティを獲得しようともがく無名者であることと完全にイコールです。そうした無名の青年にとって、古さに依拠して自己を表現せねばならないということは、ひとつの呪いです。 芸術というものは、何の成果も得ていない誰かが中途半端な存在を正当化するための隠れ蓑などではなく、選ばれた者にだけ与えられる特権のようなものだという残酷な認識を植え付けた。(p.69) より構造的なレヴェルでいうならば、古い―新しいという対比が、卑小―天才という対比と重ねられているともいえる。 古いものへの憧憬を抱きつつも才能のない主人公(永田)と、新領域をつぎつぎと拓いていく天才(小峰)という対比のもとでは、主人公は嫉妬し苦悩することを宿命的に背負いながら表現を模索してゆかねばなりません。 卑小であるがゆえに揺るぎない自己(芸術表現)を確立することはできない。しかし古さ(近代)を志向するがゆえに、自己表現と芸術を切り離してしまうこともまたできない。 シーシュポスの神話よろしく、永遠につづく苦闘を主人公は課せられているわけです。 そしてその苦闘こそが、ヒロインとの別離を決定的なものとしてしまう。
世界のすべてに否定されるなら、すべてを憎むことができる。それは僕の特技でもあった。沙希の存在のせいで僕は世界のすべてを呪う方法を失った。沙希が破れ目になったのだ。(p.74) 練り上げられた言葉です。作中で僕がとくに好きな言葉でもあります。 自縄自縛というか相当ワガママな言い分であることも確かですが、そうした他者との衝突を不可避的に引き起こしてしまう近代的自我の病理を、うまく言い当てているようにも思えます。 認められることを誰より欲しながら、恋人の瞳の中にいる自分を認めることはできない――氏がこの作品を「恋愛小説」だというのはこうした点によるのでしょう。(村上春樹さんの『ノルウェイの森』における「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーも、おそらく念頭にあったと思われます。) 夢の纜そうしたふたりの恋愛の背景となっているのは、東京という街です。物語の終盤、主人公が小峰の作品を観てその才能を再確認するシーンにおいて、次のように語られます。 問題があるとすれば、東京で暮らす男女というテーマが、同時代の別の作家によって、ある種の滑稽な悲劇として、あるいは神話のようなものの一部分として、作品化されてしまったことだろう。この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さなければならない。(p.100) 地方を出て東京で暮らすということ、生活の奔流に呑まれそうになりながらも「夢」に踏みとどまるということは、やはりそれ自体ひとつの孤独な闘いでしょう。 そこには苦悩や怨念がある――人間が生きるということに付随する、情念の限界的状況が存在する。それはかつて近代の文学者たちが全人生を賭して取り組んだ主題でもありました。 ゆえにこそ、永田にとってその闘いは「新たな獲得」ではなく、あくまで「取り返す」ものとしてなされる。 この作家・作品において近代の継承がひとつのテーマをなしていると僕が考える理由はここにあります。 それはある意味で守旧であり懐古趣味なのかもしれませんが、「新しさ」を前にしてなお「古さ」に踏みとどまることがもたらす帰結を描くことは、現代においてしかできない、と言えるかもしれません。 小説の強度2.のお笑い芸人としてのキャリアと表現の関係について論じるのを忘れていました。 でも、ここまで書いてくれば氏が小説に対して無責任に開き直ってなどいないということは明白でしょう。この作品には基本的に「ほのめかし」がありません。いかようにも解釈できる「深そう」なことを言って読者を煙に巻く韜晦的態度とは無縁です。積み重ねられてゆく会話・描写の一語一語に、小説世界の強度を高めようという意識が感じられる。このあたりは引用ではもったいない。ぜひ実際に読んで頂ければと思います。 僕はこの作家が『火花』を発表したとき、普段買っている『文學界』が書店から売り切れているのを見て無意味に憤慨したものでした。 今回は先に『文學界』を買って読んでいたら、気づけば『新潮』が書店から消えていた。自分の学習能力のなさに呆れて「人間失格……」などと呟きたくもなる。色々と歩き回ってなんとか手に入れることができましたが、思ったより時間がかかってしまいました。 発売から一ヶ月近くたち、「いまさら」感想を述べるのかという感もありますが、5月には単行本の出版も控えているといいますから、全く機を逸していることにもならないでしょう。 長々と書いてきましたので、今夜はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
せっかくのクリスマス・イヴなので、なにかコラムを書こうかなと思い立ちました。 最近、チャールズ・テイラーという哲学者の本を読んでいたのですが、文学・芸術にかんする記述が思わぬ形で登場し、とても面白かったので簡単にまとめてみます。 テイラーというのはもともと政治理論の文脈で名を馳せた学者で、身近なところだと(『ハーバード白熱教室』で話題になった)マイケル・サンデル教授の師にあたる人物でもあります。今回紹介する本『〈ほんもの〉という倫理(The Ethics of Authenticity)』も、政治哲学の視角から人間について分析した著作ということができるでしょう。 といっても、内容はわれわれにとってきわめて身近なもの。僕(石田)なりに一言でまとめると、テイラーの問題意識は「現代社会に対してどのような態度をとるべきか」というものです。あとあとで重要になってくるので、彼の文学論に入るまえに、手短に理論を概観しておきましょう。 ふたつの顔われわれが現代社会について考えるとき、しばしば二つの極端な立場――全面的な肯定、もしくは全面的な否定――に陥ってしまいがちです。 近代以降のわれわれは、科学技術を発展させるとともに迷信や偏見を解消し、個人としての自立を獲得してきました。つまり、「個人主義(individualism)」の考え方に基づいて、自分の生き方を自分自身で決定することができるようになったわけです。 しかし一方で、個人主義の進展によって、人々のあいだの絆や道徳もまた解体されてしまった。ある人の価値観について他人がどうこう言うことはできないと考えられるようになり、また同時に人々は自己決定を重んじるあまり他人に関心を払わなくなってゆく。 いわば、現代のわれわれは「魔女狩り」によって迫害されることはなくなった代わりに、「カネの亡者」のような人物を批判する基盤も究極的には失ってしまいました。 ですから、自己決定を偏重して現代社会を全肯定してしまうと、たとえば目的のために他人や自然環境を搾取・破壊するエゴイズムをも肯定することになり、いっぽうで現代社会を不道徳で浅薄なものとして全否定すれば個人の自由やテクノロジーによって豊かになった生活をも否定することになってしまう。 全肯定や全否定といった極論ではなく、現代社会の利点と欠点を正しく評価して理想に近づけてゆくためにはどうすればよいか。テイラーは現代社会がどのようにしてつくられたかを理解することで、つまり近代化の本質とはどこにあるのかを見極めることで突破口を開こうとします。 〈自分らしさ〉と芸術家テイラーの理解によれば、個人主義の本質とは、われわれが迷信や偏見に囚われることなく〈自分だけの〉アイデンティティを発見してそれを明確に表現する、というところにあります。われわれは〈自分らしい〉あり方を発見して、そのように自らの生活を選び取ってゆくことに人生の意義を見出します。 そして、このような自己発見―表現のプロセスは芸術的創造ときわめて似通ったものです。 芸術家とはその人だけにふさわしい自己(作品のありかた)を定義し、表現している存在です。ですから、近代以降の社会において芸術家は、〈自分らしい生を生きている人物〉の模範として英雄視されるようになってゆく。 こうした議論を補強するものが、芸術の役割にかんする理解の変容です。古来、芸術の役割はミメーシス=「模倣」であると考えられていました。つまり、芸術品とは事物の本質(イデア)を写し取ったものであり、また本質の模倣が適切になされていればこそ多くの人々のあいだに共通の反応・感動を引き起こすことができるのだと考えられていた。しかし十八世紀以降の思想家(たとえばヘルダーなど)において芸術は「創造」の営みとして理解されるようになってゆきます。作品のありかたを作者が他によらず自ら定義する「創造」とは、まさに〈その人らしさ〉の自己発見とぴったり重なります。 さらに言えば、十八世紀以降、芸術は道徳からはっきりとした形で切り離されてゆきます。シャフツベリやカントといった哲学者たちは、美の目的は美それ自体にあると考えました。われわれは芸術作品の美しさにふれたときに満足を覚えますが、それは美しいことが道徳や欲求の充足にかなっているからではありません。ただ美しいがゆえにわれわれは満足感を覚えるのです。 もちろん、〈自分らしさ〉の探求においても同様の論理が働いています。〈自分らしく〉あることは、なにか別の目的のためにそうするのではなく、まさに〈自分らしくある〉ことの満足のためにそうするのです。 これは僕の私見ですが、現代の私たちがSNSに強い魅力を感じる理由のひとつには、それが自己表現の場であるから――写真や文章を投稿することによって〈自分らしさ〉を作り上げてゆくことができるから、ということもあるのかもしれません。 芸術の主観化 こうした個人主義が文化に与えたインパクトを、テイラーは「主観化(subjectivation)」と呼んでいます。主観化とは、まさにものごとの基準が主観中心になってゆくということ。 たとえば近代以前の芸術においては、「万物照応(correspondences)」という考え方が存在していました。 シェークスピアの『マクベス』において、ダンカン王が弑される直前、鷹がフクロウに殺されるという出来事がおこります。これはたんなる雰囲気づくりの演出などではなく、むしろ「鳥類の王者」たる鷹の死によって、王の殺害そのものを直接的に示している。十八世紀以前の芸術においては、こうした鷹=王のような対応関係の共通了解がひとびとのあいだで成立しており、そうした参照項にしたがって芸術が成立していたといえます。 一方で、近現代の芸術においてはもはやそうした共通了解は存在しなくなっています。たとえばリルケの『ドゥイノの悲歌』は次のように始まります――「ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ」。 ここでいう「天使」について理解するとき、もはや共通の知識はあてにできません。この天使はキリスト教の教義に登場する天使たちのことを指すわけではないのです。そうではなく、「(リルケの)叫び声が届かない存在」ということ手がかりに、われわれが作品全体を読解することではじめてその意味が明らかなものとなる。つまりこの「天使」とはリルケが世界にたいする自分の感覚を表現するために用いた象徴なのであって、まさにリルケ=芸術家の「主観」とむすびついた「創造的」なことばの用法といえるでしょう。 より正確に言えば、近代においても万物照応という原理を用いて詩をつくることは可能だが、しかしその照応関係が、共通の知識ではなくそれぞれの詩人の主観に基づくようになった、ということです。 まとめましょう。われわれが社会的な道徳やしがらみから離れて、それぞれに〈自分らしさ〉の探求に踏み出してゆくのと同時に、芸術においても公的な参照点が失われ、表現のよしあしは個人の主観に属するものへと変化していったのです。 こころに響く最初にみたように、テイラーの問題意識とは、現代の全肯定にも全否定にも陥らずに社会を理想へと近づけてゆくことにありました。そしてテイラーは、問題の解決につながるひとつの光明を芸術のうちに見出すのです。 テイラーは、芸術における 「様式の主観化(subjectivation of manner)」と、 「内容の主観化(subjectivation of matter)」を区別します。 そして、近現代の芸術の様式が主観化したからといって、作品の内容もひたすら個人的でなければならないわけではないと指摘する。 表現の様式は主観的でも、その内容は作家の自己を超えたなにものかを対象としうる――イギリスの詩人ワーズワースは、詩を「強烈な感情の内発的な流出(the spontaneous overflow of powerful feeling)」と定義しましたが、しかし彼の作品からは、まぎれもなく一個人の主観を超えた世界(自然)のありかたを読み取ることができる、とテイラーはいいます。 ワーズワースをはじめ、先述のリルケ、そしてエリオット、パウンド、ジョイス、マンといった近現代における偉大な文学者たちは、たしかにそれぞれの主観・感性に基づいて言葉を操りましたが、しかし自己を超えた世界の秩序についても探求をやめてはいなかったのです。 そして狭量なエゴイズムに陥ることなく、〈自分らしい〉生の獲得を人々が目指すとき、こうした芸術作品はすぐれて人間的な導きを提供してくれます。たとえば、われわれの生には、単純な利益の計算によってはその重要性を汲み尽くせない問題というものが存在します。愛の問題や、自然の中で人間が占める位置、死者と生者の関係についてなど……。そうした問題について芸術は語ることができる。 そして、表現が主観的だからこそ、つまり「個人的な共鳴を引き起こす言語(languages of personal resonance)」によって表現されているからこそ、われわれは自らの主観において主題の重要性を感じ取ることができます。換言すれば、われわれが作品に「個人的な共鳴」を感じるとき(たとえば自然と人間の関係についてなにごとかを感じ取るとき)、われわれの〈自分らしさ〉のありようもまた変容もしてゆくということです。 芸術家の夢芸術の主観化が起こったというけれど、文学に客観的・科学的な描写を導入しようとしたエミール・ゾラたちの「自然主義」についてはどうなのか、という疑問も当然ありえます。たしかにテイラーは自然主義について本書では言及していませんが、彼の議論を補う道はふたつあるでしょう。たとえば科学的な描写を「目に見えたとおりに描く」こととして理解した場合、それは徹底した主観化でもあるということ。そして第二に、「観察可能な事実のみを描く」こととして理解した場合、客観との対比ではなく、むしろ神秘的・超越的な視点(宗教的奇跡や神話)との対比において自然主義は人間の主観を問題にしているといえるでしょう。 さらに言えば、既製の工業製品を芸術作品として提出したマルセル・デュシャンのインパクトの大きさは、芸術における主観化がいかに徹底的かつ広範であったかを逆説的に示しているともいえそうです。 そして日本でも、同様の状況が存在していました。我が国における近代文学の端緒をひらいた坪内逍遥の『小説神髄』において、小説は道徳や社会の進歩から離れた自律的なものであるべきと論じられています。フランスから輸入された自然主義はしばしば作家自身の体験の偽らざる記述としての「私小説」 の体裁をとりましたし、そうした私小説作家がときに自身の無道徳的ないし破滅的な生活を題材にしたことは、まさに近代化の「ふたつの顔」を忠実に反映した結果だったといえましょう。 また文学における公的な参照項の解体ということでいえば、現代のわれわれは近代以前・近代初頭の知識人が当然のごとくに有していた漢籍の教養を失ってしまいました。僕は教科書に出てくる枕草子の一節(中宮に「香炉峰の雪いかならむ」と尋ねられた清少納言が、白居易の詩を思い出してとっさに簾を上げさせて庭の雪景色を見せるというもの)が大好きなのですが、そういった暗黙の了解として通用するような知識は階級制の消滅とともに消え去っています。 テイラーの議論は、あるいは政治というフィールドで展開するにはナイーヴすぎるものかもしれません。しかし、これからの文芸が「どこへ行くのか」を知るためには、「われわれはどこから来たのか」、そして「われわれは何者なのか」を見つめる必要がある。クリスマスという西洋の伝統行事に際して、われわれの過去を振りかえってみることも、たまにはいいかもしれませんね。 夜も深まってきたので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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