いよいよ冬らしい冷え込みになって参りましたが、みなさまごきげんいかがでしょうか。 さて、昨日に引き続いて『ビジネスファミチキ』のレビュー【後編】をお届けします。 実は昨日の段階で半分ほど書いてあった原稿を、自分(石田)の手違いで消去してしまい、 泣く泣く今日書き直したのですが、 一度書いた文章を記憶を頼りに復元するというのはアホくさい一方でちょっとロマンがあるような気もします。 前前前世みたいな? 後編では井口可奈さんの『ファブリック』と升本さんの『わたくしのしくじり』についてレビューします。 ※デザインとガクヅケ木田さんの『後輩君』についての感想はこちらの【前編】をごらんください。 『ファブリック』:井口可奈タイトルの通り、ふたつの「工場」をめぐる小説です。 作者の井口可奈さんは『ボーンの錯覚』で京都大学新聞文学賞の大賞を受賞されているとか。 オリジナルな世界観を構築して、途切れることなくそれを持続させる集中力はさすがです。 僕はこの作品の総合的な印象として、「なにもない空中にぺたぺたと手作りの不条理をつくりあげている」 というようなイメージを持ちました。 といっても、ここで「手作り」というのは、「作為的」という意味ではなく むしろ「素朴」といったほうが近いかもしれません。 強いて言うなら、アルベール・カミュのような乾いてギラギラした不条理ではなく、 フランツ・カフカのように地道に煉瓦を積み上げてゆくタイプの不条理といった感じかな。 しかし積まれた煉瓦は壁になるわけでも塀になるわけでもない。 何かをつくっているけれど、何をつくっているのかはわからない。 fabric, fabriqueの語源はラテン語のfabrica「仕事」であるようで、 「手作りの不条理」という物語の印象にはぴったりなタイトルかもしれません。 あるいは日本語でも布地のことを「ファブリック」といったりしますが、 そういうときもどちらかといえばテロテロしたポリエステルの布というより、 ウールなりコットンなりの編目の荒いざっくりした生地のことを思い浮かべるのではないかな。 ここでいいたいのも、そうしたイメージの核にある「手仕事」のことだと思ってください。 僕がこの小説からカフカを想起したのにはもうひとつポイントがあります。 それは、いろいろと説明される工場の内部の光景が、まったく頭のなかに像を結ばないということ。 ラズベリーの粒をぷちぷち外す工場と、 粉をこねて製品をつくる工場、 のシーンがあり、それぞれ細部の描写(ドアノブの種類とか)はなされるのですが、 全体としての部屋の光景が立ち上がってこない。 前者が「暗い工場」で、後者が「明るい工場」くらいのぼんやりしたイメージに留まっていて、立体的なモデルを思い浮かべることができないんです。 カフカの『城』において、物語の舞台となるのは城のある「街」です。 主人公はその街にやってきて逗留し、城の姿を見ながら生活してゆく。 しかしその様子を読む読者は、街の全体像がどのような構造になっているのかわからない。 街の「地図」をけっして思い描くことができないようになっている。 そんな解説を昔読んで、僕自身なるほどと思った記憶があるのですが、 『ファブリック』にも同様の描写の特性があるように思います。 物語の舞台がぼんやりしているがゆえに、そこで演じられる行為の意図や目的の分からなさが際立っている。 まさに「行為の背景がわからない」がゆえに、何かをつくっているけれど、何をつくっているのかはわからない。 僕が最初「なにもない空中に」といったのは、そういう意味からです。 (ちなみに『城』の主人公も「測量士」というなんだかワクワクするような名前の職についているのですが その仕事の内実はけっきょくどういうものかよくわからないんですよね。) あるいは『ファブリック』における背景の欠落は、「神の視点」が欠落していることに起因するのかもしれません。 あくまで「主人公が見たもの」しか描写されないがゆえに、人間が本来無意識のうちに見て補完しているはずの全体が欠落している。 というのも、ストーリーはたしかに難解ですが、『ファブリック』は"ナンセンス"の物語ではないように思われるから。 たとえば一方の工場で玄関のチャイムがピンポーンと鳴ったかと思うと、別の工場では登場人物が卓球(ピンポン?)を始めたりする。 なんらかの連鎖反応が起きていることはたしかで、それに従ってストーリーも生起するけれど、 そうした反応を整理し読者に提示する「神の視点」が存在しないだけなのかもしれない。 そんな印象があったといえます。 もっとも、この作者が謎を謎のまま提示しているからといって、それは前編で紹介した又吉直樹さんやガクヅケ木田さんのような 「笑い」のスタイルと同一視することはできません。 (井口さんも過去にお笑いをされていたそうなので、あるいは「笑い」の種類が違うだけなのかもしれませんが) 自分についてであれ、他人についてであれ、「笑い」の語りはおおむね確固たる「自分」の視点からなされるように思います。 あるいはそうした揺るぎないものへの信頼感があってはじめて「笑い」は可能なのかもしれない。 たとえば木田さんの『調布ババア』にはかなりぶっ飛んだご婦人が登場しますが、 そうした登場人物と語り手のあいだには完全な断絶があります。 まったく外部のものだからこそ、イジってエグさを際立てることもできるし、温かい視点を投げかけることもできる。 しかし、『ファブリック』においては、語り手と登場人物のあいだに決定的な断絶がない。 僕がそれをとくに感じたのは「父親」の描写において。 この「父親」は、人情味溢れるイイ奴だとか、暴力的で醜いクソ野郎だとかいった類の登場人物ではありません。 むしろもっといじましい、自分だけの小さな世界を、大切に守り続けてきた人のような印象があります。 すでに時代遅れになった技術に孤独にしがみついている。しかも、時代遅れになっているという事実の直視を恐れて外界との接触を拒むがゆえに、 いっそう無口で頑固な職人を演じなければならなくなっている――そういう人って、いませんか? 僕がこの「父親」にたいして抱いたイメージもそれに近いです。 しかし、これほど印象的な「父親」との関係は結局清算されない。尊敬も、共感も、憐憫も、はっきりした軽蔑すらもない。 この作家は、上述の『ボーンの錯覚』で、「ショートカットの女性は合理的だからトイレも短い」という 世の男子がびっくりして腰を抜かしそうなほどの啓蒙的所見を述べているのですが、 『ファブリック』の「父親」に関して、そこまで突き放した描写はなされない。 主人公と「父親」のあいだには「血のつながり」が残るのです。 別に僕は精神分析家ではありませんし、だからなんなんだと言われればそれまでなんですが、 「主人公ではありえないもの」に対する視線にも、作品・作家の個性は現れるのかもしれないな、 などと思ったということです。 積極的に引き受けるのではなく、かといって完全に拒絶もしないもの――自分にとってはなんだろうなあ。 そんなこんなで、色々考えさせられる小説でした。 とにかくみなさん読んでみて! 『わたくしのしくじり』:升本津村記久子『カソウスキの行方』へのオマージュ的エッセイ?小説なのだろうか? 職場の同僚がみんな自分のことを大好きだと仮想したら……というお話です。 これ、とっても面白いです。僕は好きだなあ。 なんか全体的に大人の色気があるんですよね。余裕があるからなのかな。 あずまんとか佐々木敦氏が開講している「ゲンロン批評再生塾」の課題に手を加えたものということですが、 俺らしい文書を書いてやるぞ!みたいな気負いが全く感じられない。口語的な文体で、ただただ淡々と出来事が語られてゆく。 それゆえか、クールな京都弁?滋賀弁?のような口調も全然嫌味っぽくなくて、結局なんかカッコよさ出ちゃってるわけですよ。 『初体験の相手』の脚注もそうでしたが、ギミックが嫌味にならない、ってのはやっぱりセクシーですよね。 譬えて言うなら、『ハチミツとクローバー』(羽海野チカ, 2001年)にオトナ側のキャラとして出てきそうな感じ! 色々と脱ぎ捨ててこられたんでしょうかねぇ。 ジャンルがよくわからないし、そもそもジャンルなんて無意味なものなんでしょうけど、 「これは批評です」って言われるといちばんしっくり来る気もする。 僕のきわめて無責任なイメージでは、批評家って泥臭くナイーヴに苦悩するか、キレッキレの知性を押し出していくか、 いずれにせよ振り切れてるタイプが多いような気がするので、こういう洗練があったら楽しいんじゃないかなあ。 an・anあたりで連載とかしてほしい。 ちょっとテイストは違いますけど、穂村弘のエッセイがお好きな人なんかは 僕と同じ感想を共有できるんじゃないかなと思います。 文芸批評についてはまだまだ不勉強で、 やたら素人くさい感想になってしまいましたけど、どうぞご寛恕ください。 皆さまぜひ読んでみてください(再) 二日連続でとても堪能したので、今回はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
0 コメント
怒涛の日々が終わって、ようやく穏やかな時間です。 ここのところ大学院の研究が忙しく、完全に心と時間の余裕を失っていました。 今は、夕方の空に白く浮かぶ月をみながらこの文章を書いています。 ……などとキザなことを恥じらいもなく表明してしまうあたり、 なかなかセンチメンタルになっているのかもしれません。 しかし、そんな僕(石田)の安っぽい感傷を吹き飛ばすような作品に出会いました。 雑誌名は『ビジネスファミチキ』。文学フリマに出展されていた同名の団体さんの作品集で、3人の執筆者がいろいろ寄稿しています。 以下掲載順。なお、()内は僕が便宜的につけた分類です。 『後輩君』(エッセイ):ガクヅケ木田 『初体験の相手』(エッセイ・批評):升本 『ファブリック』(小説):井口可奈 『母』(エッセイ):ガクヅケ木田 『わたくしのしくじり』(エッセイ?):升本 『調布ババア』(エッセイ):ガクヅケ木田 作品数が多いので、それぞれの作者から一作品ずつピックアップしてご紹介します。 DTPの美しさところで、この本を開いて思うのは、本文のレイアウトが美しいということ! 文学フリマに出展されていた雑誌のなかでも最上級なのではないか。 僕のサンプル数が少ないのは承知のうえですが、しかしあえてそう言いたくなる。 ちなみに僕の手許の情報だと、デザイン担当者の升本さんは『クライテリア』も手掛けられているようです。 比べてみるとノンブルのあたりのデザインに共通のセンスを感じますね。 『ファミチキ』の表紙のデザインは個性派路線なのですが、本文ページはとても端正で、上品です。 まず紙のセンスがいい。うすい黄色ですべすべしていて、別嬪という感じ。 読んでいるときから「どこかで見覚えのある紙だなあ」と感じていたのですが、まさに今思い立ったのは「岩波文庫」。 あの情緒ある紙をもうちょっと分厚くした感じですね。 フォントの扱いも職人芸の域。 文字どうしの間隔が狭すぎると野暮ったくなって、しかし広すぎると内容に没入する妨げになってしまうものですが、 絶妙なバランスで配置されています。 小技も効いています。 小説系の本のページを思い浮かべていただけるとわかりやすいと思うのですが、 だいたいは紙の中央に縦書きの文字がバーッと並んでいて、 その上か下、紙の端にページ数と作品のタイトルが小さく書いてあると思います。 『ファミチキ』の場合、本文は明朝体で、下のタイトルは細めのゴシック体になっている。 明朝体は格調があって美しいですが、ともすると難解そうな印象を与えてしまいます。 いっぽうゴシック体は現代的・デジタルな印象でかつお堅くなりすぎないので、 併用することで重厚感をほどよく緩和させて、「ビジネスファミチキ」という世界観に着地させているわけですね。 すみずみまで独自の美学が感じられるという意味で、商業誌にはない水準に到達しているのではないでしょうか。 それでは、外見のことはこれくらいにして、内容のレビューに入りましょう。 『後輩君』:ガクヅケ木田木田さん(僕)がバイト先の天使のような男の子(後輩君)を好きになってしまうラブコメ風のエッセイです。 破調・乱調の美しさというのでしょうか。 木田さんの三作品はどれも面白くてしかも読みやすいのですが、僕はこの作品が一番好きです。 筆者はプロのお笑い芸人としてもキャリアを積んでおられる方で、 「ガクヅケ」というお笑いコンビでマセキ芸能社に所属中だとか。 「お笑い芸人だから」という視点が作品を読むうえでなんの意味もないということは理解しているつもりですし、 僕自身お笑いについては全然詳しくないのですが、 しかし又吉直樹さんの『火花』を読んだとき同様、やっぱりお笑いの技術というのは文学のそれときわめて近いところで成立しているのではないかと思いました。 「笑わせる」ことと「笑われる」ことをうまく使い分けているような気がするんですよね。 『母』と『調布ババア』は、どちらも身の回りの非日常性(ふと気が付きましたがどっちもバ○ア、もとい妙齢のご婦人ですね)を対象とし、 作者は「ツッコミ」的立場でコメントを差し挟んでゆきます。 そしてコメントにおける言葉選びの巧みさによって、対象の非日常性が際立ってゆく。 非日常性を「笑える」ものにすることで読者を「笑わせる」、そんな文章だと思います。 いっぽうで『後輩君』はなんというか、書き手がひたすらボケ倒しているような勢いのある文章です。 LGBTがどうとか、そういった説明への深入りはなされませんし、読者もそうした社会的な文脈は無視して、 ひとりの書き手のちょっと重めな恋愛感情についての告白を読む楽しさがあります。 それでも、その「ちょっとした重さ」がひとつの物語として成立してしまうのは、 「なに男を好きになっとんねん」というツッコミ可能な余地を読者のために残しているからではないか。 後輩君は天使のようにかわいいのだ、と主張する「僕」をみるとき、読者にとってかわいいのは後輩君ではなくてひたすらに無邪気な「僕」へと転化している。 たとえば男性が女性アイドルについて「いかに天使か」を語ったところで このエッセイほどの勢いも愛嬌も獲得できないのではないでしょうか。 パッと思い浮かぶあたりで小林よしのり氏の文章はたしかに陶酔的ですが、 二人の「熱」のあいだには何か本質的で決定的な差異があるように思われます。 あるいはその差は、体験そのもののリアリティにあるのかもしれません。 「余地(異物感)を残しておく」ということは、そうした社会的な規範からほんとうに「逸脱」し、 現実に傷つき葛藤した(文中にもそうした描写があります)からこそ可能になったのだ、ということです。 どれほど異物といわれようとも、それは当人にとって紛れもない現実です。 いっぽうでそうしたリアリティをもたない書き手は、読者の視点を内在化してみずから違和感を埋めようとしてしまう。 現実を現実として提出することができず、無意識のうちに「説得」しようとしてしまう。 微細な異物感を核にして、その周りにいろいろなエピソードをくっつけてゆくことで奇妙なリアリティを現出させるという手法は、 たとえば最近芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』にも通ずるところがあるように思います。 「笑われる」ことというのは、書き手と読み手のあいだの本質的な関係に立脚した ひとつの芸術なのかもしれません。 そして、文中唐突に現れる、 「よろしくお願いします」(p.3)や 「色々頑張ります!!!!!」(p.7) といった書き手から投げかけられた奇妙な挨拶文を読むとき、 「笑われる」技術はきわめて危ういバランスを保って読者を内容へと引きずり込むのです。 すっかり暗くなってしまったので、今回はここまで。 井口可奈さんの『ファブリック』と升本さんの『わたくしのしくじり』については【後編】でレビューする予定です。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
先日の第二十三回文学フリマ東京で、お隣のブースに出展されていた宏井真希さんの作品集です。 僕(石田)は文フリのブースが発表になった当初、「宏井の店、作品集を出します」とだけ書かれたシンプルかつストイックな説明を読んで「隣は年配の方の店なのかな」などと勝手に空想していたのですが、当日ご挨拶するとなんのことはない27歳、ひとつ年上のおしゃれなお兄さんでした。 ちなみに内容は宏井さん個人の中・短編を集めたものとなっていて、 『わたしの記憶』 『ソロンの演説』 『ある潜伏取材』 『霊園の沼』 の四作品が収められています。 僕は前半のふたつについてレビューします。 全体の感想ですが、たいへん面白く拝読しました。完成度が高い! 文学賞への投稿歴も長いということで、さすがに文章が馴染んでいる。「若気の至り」みたいな表現はまったくなく、沈黙のなかでじっくりと練り上げられた言葉という印象があります。 「わたしの記憶」「わたし」の幼少期を描いた私小説的な作品。 自意識が強く、他人に対してつねに演技的な少年の心理が綴られています。 暗い。しかしジメジメした暗さというよりひんやりした暗さです。 この二作を読む限り、暗さというのはこの作家が宿命的に背負っているものなのかもしれません。そして僕は嫌いじゃないです。 物語としてはおそらく実体験が種になっているとは思われるのですが、しかし単なる私小説でもない気がします。というのは、必ずしも作者は自らのすべてを作中で開示していないように思えたから。 まず、私小説というのは自らの他者性を直截に読者に売り込むタイプの作風だと僕は理解しています。 そしてとりわけダークサイドよりの(破滅型)私小説は、作家が自らの弱さや醜さを一切隠すことなく積極的に開示してゆくことで強烈なリアリティを獲得する。 私小説『苦役列車』で芥川賞を受賞された西村賢太さんは、あるインタビューで、 「作中人物の行動・心理が『自分と同じだ』と感じた読者がすがるようにして読むものが私小説である」と仰っていました。「すがる」というのは至言で、そこには尊敬と卑下が混在しているような気がします。 たんなるストーリー上の演出ではなく、作品のうしろで生の作家がじっさいに苦悩している様が伺えるからこそ、読者はそうした主人公=作者を軽蔑すると同時に強く惹きつけられる。 しかし、この主人公の内面はあんまりドロドロジメジメしていません。 あるいは主人公が小学校低学年ということからくる必然的帰結なのかもしれませんが、逆に言えば作家は意図的に「高学年」を描いていないようにも思えました。私小説につきものの生理的な嫌悪感が、あまり惹起されないのです。 たとえば性への関心はほのかな芽生えのままに留まっており、太宰治の「按摩」(マスターベーションの換喩)のような直接的な行動には結実しません。そして主人公の性欲がはっきりとした像を結ばないゆえに、その内面的な「罪」の意識もぼんやりとしたものに留まっている。(一方で登場する小学生女子の言動はとてもリアルで、作者の観察眼の鋭さには驚かされます) また人間以外の生物への視線もどちらかというと同情・共感によって支えられており、有機体の醸し出す生臭さみたいなものはあんまり感じません。 もちろん、たんなる幼年期の心境解剖であって体験の開示とは無縁の作品だ、と読むこともできます。しかし、この地道な描写や内省的なトーンに作者自身による告白性を感じるのはきっと僕だけではないでしょう。 また、この作者は非常に高い技術を持っていますが、しかし「技術の作家」に徹することができるほど自己から自由にはなれないんじゃないかな、という気がします。これは批評というよりほとんどシンパシーですが。 そんなことから、全体として僕の得た印象は次のようなものです。 この作者にはきっと「見えて」いる、しかし見えたものすべてをさらけ出すことはあえてしなかった……。これは長所でもあり欠点でもあるのかもしれません。老成した雰囲気はこの作家の大きな魅力でもある一方、やや物足りないと思う読者もいるかもしれませんから。 そのかわり(ここが作者のクレバーなところですね)、作中には物語への没入を誘うきっかけが散りばめられています。フユコからの手紙や、後半の物理的暴力のシーンは、しみじみと哀しい美しさを湛えています。あんまり書くとネタバレになってしまうのですが、僕はこういう描写が大好きです。 たしかに暗いけれど、冬の朝の日陰みたいに冷えていてちょっと清潔な感じもある。 その意味で、文体の成熟とはうらはらに、この作家が世界を見るセンスはきわめて現代的・僕にとって同時代的なものとして映ります。(『新潮』に投稿されていたということですが、僕はむしろ『文藝』の作家陣に通じるものを感じました) 「ソロンの演説」 なんというか、僕にとって自分の『星の躓き』のことを思い出してしまう読書でした。 アテナイの政治家ソロンの晩年を描いた作品で、完璧な構成と堅実な設定を備えて老年の心理を丹念に描いた傑作です。伏線の回収もバッチリ決まっていて非常に完成度が高いです。 上で老成した雰囲気がこの作者の魅力であると書きましたが、老年の寂寥というのはぴったりな題材なのかなとも思います。 しかしドラマティックな演出が効いているのもこの作品のいいところ。 とくにペイシストラトスとの対話がいい。じつに巧みに練り上げられており、疑念の暗黒色と諦念の枯淡な色合いが程よく混じり合った、この作家の真骨頂かもしれません。 描写はきわめてミニマルなのですが、会話のテンポがわりにゆっくりで、そのギャップから奇妙な迫真性が生まれている。 読者はおそらくペイシストラトスに感情移入しながら読むことになると思うのですが、相手にまわったときのソロンは老獪なようにも真摯で情熱的なようにも思われて、非常にやっかいです。 古代人らしい率直さといえばそうなんですけどね。 なんだか僭越な気もしますが、どうしても言いたいことがひとつ。 クライマックスであるソロンの演説は台詞の全文を描き切って欲しかった! 冗長になってしまうというリスクはありますが、ここまでずっと抑制的な文体で描き切った作者だからこそ、ここでその技術とパトスをふんだんに開放してほしかった。 こう書くのは、その直前、コミアスの邸宅を訪ねるシーンからの接続が最高に効果的だからです。文章はあくまで淡々としているのですが、その拘束を振り切って物語の力が溢れてきている。ここめちゃくちゃ面白いです。 だからこそ、かりそめでもいいから「結実」を見てみたかったなあという気がするんですよね。ここもあんまり書くとネタバレになってしまうので、ぜひ皆さま読んでください。 ラストはやっぱり美しいです。これは何作も書いて経験を積んだ人でないと描けない終わり方かもしれません。 作家のゆく道ところで、この作者の文体について気付いたことがあります。 それは二重否定「ないこともない」の多用です。「○○しないでもない」「○○でないこともなかった」といった表現が非常に多く出てくる。とにかく出てくる。 多く出てくるから鬱陶しい、読みにくいとかそういうことではなく、ここに作家の偽らざる内面が露呈しているような気がするんです。意図的なのか無意識的なのかはわかりません。それでも、物語のテンポが速まるにつれて、ないしは主人公の心理への没入が深まるにつれて「ないでもない」が増えてゆくように思われるので、なんとなく無意識にそうなっているのかなという気がします。(あるいは意図的に配置しているのだとすると、その試みは大成功ということになりますね。) 換言すれば、「ある」と言い切らないところが、あるいは言い切れないところが、この作家が背負う宿命を暗示しているようにも思えます。 僕は第一作「わたしの記憶」にかんして、作家が自己開示を避けていると書きました。 しかし、確かに作品に表れているところもあります。主人公の独白にもある通り、それはきっと臆病さです。それは物語のなかのある登場人物二人がほのかな味わいを残したまま「転校」してしまうことにも表れている。 結実することを避ける臆病さと、そうした性向には避けられない孤独を抱えながら、しかし小説という自己の分身を描き切ることを強要される作家というのは過酷で、ときに悲惨であり、しかしだからこそ魅力的です。そして作家にとっての文体とは、自意識の檻であると同時に防波堤でもあり、そして媒介物でもあるのかもしれません。 最後に。筆者はあとがきで「自らの作品が小説になっているか自信がない」、と述べています。しかし僕が生意気にもここまでごたごたと感想を述べることができたのは、氏の作品が小説として確かな生命を宿しており、その内的な運動をはっきりと僕に示してくれたからだと思います。 すっかり堪能したので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
|