おかげさまで習作派は四年目を迎えたみたいです。 第二十九回文学フリマ東京への参加を明日に控え確認したらそのことに気がつきました。 ありがたいです。 それにしても。 四年目になるってのにブログ更新が三回目ってどうなんですかね?「書け書け」と石田から言われ続けてそれに沈黙を以って答え続けていたらこんなことになってましたけど、いやマジで、もうちょっとなんとかなんなかったんですかね。その間に転勤とかしちゃいましたよ。あ、今茨城県に住んでます。茨城の方、仲良くしてください。 茨城住んでみて経験したこととして「茨城ダッシュ」なるものが存在するんですけど、多分これ全国的な認知度は低いと思うのでご参考までに紹介します。 茨城ダッシュとは。 【茨城県で広く見られる運転特性の一つ。 中規模以上の十字路等で見られる。信号待ちの右折車両が対向の直進車両を無視し先んじて右折を断行すること。またその行為から称される茨城県民の心のこと。】 みなさま、茨城にお越しの際はこれだけはお気をつけください。これ以外は程よく都会で物価も安くて風景も豊かで良いところです。 がんばっぺ茨城。 さて、危うく本題触れずに書き連ねそうになってましたが、 筆の海、2年ぶりの第三号が発刊です。 去年は二人とも多忙を極め、というか多忙が二人を極めていた感じだったので文フリ東京の参加自体を見送った形になってしまったんですが、今年は復活できました。店番は私(とお手伝いさん募集←遅い)だけになってしまいましたが、下記の通り『ア-44』ブースでお待ちしております。 【新刊情報はこちら】 今回もだいぶ難産でした。 石田は二本寄稿です。一本は中国古典の怪談。もう一本はアイドルが出てくる中編という、なんとも対照的な取り合わせ。 「20代の後半はこれを書くために費やした」と言わしめるほどの力作です。ぜひお手にとってご覧下さい。 僕の方はというと、また女性人称視点になってしまって苦労しました。 苦手なのになんでやっちゃうんだろう。前回懲りたのに二年で忘れちゃったんでしょうか。鶏は三歩で忘れるらしい。鶏の脳重量って3.6gらしいので、単純に重量だけを比較したら人間の平均は350倍くらい。鶏が三歩進むのにかかる時間は歩行中なら大体1秒くらいかと思うので、脳のハンデを鑑みると350秒だと鶏並みの記憶力ってことになりますが、そう考えると僕健闘してますね。何の話でしたっけ? 個人的に今回のはふんわりしたプロットが結構前からあったものだったので、形にできて嬉しかったです。まぁ、読んで面白いものかどうかは残念ながら読んだ人次第なので、ご購入いただいた方は是非感想とか聞かせてください。記事へのコメント、ツイッターのリプやDMなんかでも大丈夫です。宜しくお願いします。 さて、明日は上京しなければならないので短いですがこの辺で。 後日参加した所感なんかを(忘れなければ)記事にできたらと思います。 また入手した他サークルさんの作品の感想なんかも二人で書きたい。 それでは、良い夜を。
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ブログを書け、と言われました。 ので、書いています。 初めからイヤイヤ書かされているような論調で申し訳ない限りなんですが、イヤかどうかと問われたら、まぁ、イヤですね。正直なところ。 まず、何を書けばいいのかわからない。石田には「こんな本がいいとか、こんな本を出したい、みたいなことがあれば」って言われてるんですが、そんなこと言われてもすぐには思いつきませんし、生来、そういう「外身」のコンテンツを考えるのって酷く苦手なんですよね。出来上がったものを見て、「あ、なんかいいな」「これはダサいな」と感じることはあっても、ゼロの状態から構想を練っていくのが不得手。じゃあ小説なんか書けるのか、って話になりそうですが、自分が書いてるものが小説として成立しているのかは甚だ疑わしいところです。 石田に言わせると、「小説は自由」なんだそうです。彼のプロフィールにも書いてありますよね。僕もマネゴトのように書き始めてから結構な時間が経ちますが、別段「小説を書こう」と思って書いているわけではありません。ただ、文章だけで勝負しようとすると、それが小説の体裁に近くなってしまうだけです。僕にもっと発想力とか構想力があったら、果たして全くべつの、新しいものが書けるのかもしれないですが、現状そこに甘んじている、というのが尤もなところです。 そんなのが嫌だったのか、ここ5年間くらいはずっとお芝居の台本に注力していました。『ガクブチ』という劇団をやっていて、その活動をメインにしておりました。お芝居の方向に傾いていったのにはそれなりに理由があるのですが、端的に言ってしまえば面白かったからです。何個か芝居をやって、そこそこ辛さみたいなものを感じましたが、達成感みたいなものはありました。 芝居の脚本は、小説に比べると不自由なんだと思います。セリフとト書きだけで伝えなくてはならないという点もそうですが、結局は役者が伝えるので、極めて間接的なデバイスだと言わざるをえません。だから、できることも限られているし(「彼は空を飛んだ」と書いても、彼は往々にして飛ぶことができない)、それをうまく補って書くことが求められます。 そういう書き方は、不自由であるがゆえに、書きやすかったりもします。 あなたが今海に放り込まれて、「なんでもしていいよ」と言われたら。 初めこそバシャバシャと水遊びすることもあるかもしれませんが、それ以降は大抵、疲れて浮いているだけになるでしょう。 でも、 「今から、あそこに見える島まで泳いで行ってください。できるだけ早く。あ、クロールは禁止です」 と言われたなら、そうはいきません。疲れたからといって休むこともできず、その通りにするでしょう。道中(海中?)、魚の群れを目撃したり、海賊に襲われたりするかもしれません。そういう想像をすることも容易です。そして、島に着いた暁には、もしくは着かなかったとしても、それは物語になるのではないでしょうか。 お芝居の不自由さは、そういった効果も孕んでいる。不自由さが動力となる場合もある、と僕は思っています。 このサークル、『習作派』で行われるのは、まさに「なんでもしていいよ」と言われながら海に突き落とされることです。ただ浮いているだけでは、決して売り物になんかならない。何かをしなくてはいけません。「なんでもしていいよ」は、「なんとかしろ」と同義でもあるのです。 5年ぶりに、小説を書いています。島へ行くのか、丘へ戻るのか。泳ぐのか、沈むのか、波に乗るのか。はたまた飛んだり、海面を歩いたりもできるかもしれない。それでも、いや、だからこそ、筆の海に溺れることのないようにしなくてはいけない。 そういう気持ちです。 |