(※長いので記事を上下に分割しています。タイトルとエディトリアルデザインについては(上)をご覧ください)
初谷むいの懐疑と解答
では、もう少し踏み込んだ分析をしてみます。
『朝になっちゃうね』には十九首の短歌のほかに、一篇の「歌序」とでもいうべき文章が収められています。 恋人か親友か、親しい相手に内心で語りかける体裁をとっており、いまは一緒にふざけて笑っているけれど、いつか一緒にいられなくなる日がくることを予感している……といった内容です。気になるところがあったので、一部を抜粋してみます。 あーあ、といったらあーあ?と返されたことがあったよ。特に理由なんてないんだ。伝わる言葉なんてない。わたしたちは横にいたっておんなじものをおんなじ目で見ることはできないし、あなたはいつか、とおくにいくんだろう。 いつかだいすきなひとが、できるでしょう。これはおそらく、予言だ。祈りだ。あなたはいつまでもあなたらしくあるだろう。わたしはそれがとてもうれしい、いつかほんとうの言葉で話せる日が来たら、わたしはまっさきに、それをあなたに伝えます。らびゅう。ずっと、げんきでいてね。
「特に理由なんてないんだ。伝わる言葉なんてない」と、他者との間に横たわる埋めがたい溝について語るとき、詩人は二重ないし三重の否定を経験しています。(I)言語の有限性と、(II)主体の有限性、そして(III)主体の不確実性です。
(I)言語の有限性に関して言うならば、近代のロマン主義芸術が志向したような、あらゆる形式から離れたおのれの内的感情の表出そのものであるような「言葉」は、この詠者にとって現実的ではないということです。 しかし、かりに内的感情や自己存在とぴったり符合するような「言葉」が存在するとして、それが「伝わる」という保証はどこにもない。これが(II)主体の有限性です。「わたしたちは横にいたっておんなじものをおんなじ目で見ることはできない」というのは、自己は永遠に自己でしかありえず、他者との間には共役不可能なものが残り続けることへの感覚だといえるでしょう。 (III)主体の不確実性というのはこの両者に関わるものです。「特に理由なんてないんだ」というのは、他者につたえるべきおのれの根拠がないということにほかなりません。ロマン主義的な「自我」は、ロマン主義―表出主義的な「言葉」と不可分であるとして、われわれは後者なしに前者を維持することがはたして可能なのでしょうか。
われわれは自己という檻に閉じ込められ、そこから抜け出ることはできない。しかしその檻の中に閉じ込められているのはほんとうに「わたし」でしょうか。もし、鉄柵の奥には空虚しかないとすれば……。
しかしながら、詩人は「いつかほんとうの言葉で話せる日がきたら」とも語っている。そこには近現代の芸術における「真正さAuthenticity」への志向がはっきりと踏襲されています。ようやく、ここに僕のこの詩人にたいするシンパシーの輪郭を明らかにすることができます。それは懐疑の果てにある希望です。 水母の骨
詩人は短歌雑誌『ねむらない樹』の別冊企画に、「わたしたち歴史のこどもです」と題したエッセーを寄稿しています。そこではこのように書いていたのでした。
世界は変わりつづける。わたしは世界の中にいる。海のかたちだって、百年後はにはまったくちがうだろう。誰だって歴史の中にいて、過去の歌は読めるだけでもう増えない。しかし、わたしたちが歌を作る限り未来に歌は存在しつづける。それは希望だと思う。(『ねむらない樹 別冊 現代短歌のニューウェーブとは何か?』2020年、書肆侃侃房、p.243)
詩人は、自分の志す口語短歌なるものが、いまから三十年ほど前に生まれた「ニューウェーブ」と呼ばれる運動の産物だと知ったとき、「えっ、世界ってもう変わってたの」「わたしは整備されたあとの海を漂っているらしい」と驚いたといいます(同上)。
芸術における「創造」が、「わたしらしさ」の十全な表現とイコールにみなされるようになった過程についてはC. テイラーが指摘した通りですが、歴史のなかに位置づけられることで、若き詩人の野心は挫かれ、自己を自己たらしめるよすがを失い、ただ「海を漂う」ことしかできなくなる。 「書き尽くされている」という絶望的現実を前にして、それでも「わたしにしかできないことをしたい」という願いの、なんと弱々しく頼りないことか。
しかし詩人は「書く」ということを選んでいます。
あるいは極私的な領域へと退却してしまって、「自分だけに分かることば」で「自分だけに宛てて書く」という自己陶酔に耽ることもできたのに、その誘惑を撥ねつける。「いつか本当の言葉で話せる日が来たら、わたしはまっさきに、それをあなたに伝えます」と語る。 西洋古典学者の逸見喜一郎先生は、「韻律とは音の文法である」とした上で、「韻律は作品の成立に縛りを与える。その縛りがあることから、ことばはいっそう先鋭な意識で選ばれる」と述べておられました(『ラテン文学を読む』岩波書店、2011年。p.vii)。 ひょっとすると、現代口語短歌の魅力というのもこのあたりにあるのかもしれません。歌人たちは定型の無批判的な踏襲を拒み、口語と四拍子説によって限りなく韻律の放棄に近づきながら、しかしおのれの自由な言葉への疑いも失っていない。形式への懐疑と、「私」への懐疑という一対の合わせ鏡のなかで、世界はふたたび無限の像を結びはじめる。 「ほんとうの言葉」のありかを示すもの、きっとそれは終わりなき懐疑であり、自縛であり、にもかかわらず書き続ける決意です。僕はここにこそ現代の希望があるといいたい。 ちなみに僕がこの本のなかから、タイトルのほかにもう一首選ぶとするならば、 その顔じゃまぶしいのかわたしを好きなのかわからない夜の自販機の前 がよいと思います。 眩しさに目を細めた表情と、照れかくしの微笑みとを重ね合わせる発想の見事さはもちろんのこと、私的でちいさな世界の、ほんの一瞬のできごとが、「まぶしいのか」「好きなのか」というイ段音と疑問形の特徴的な反復によって、夜の街というひろびろとした世界に接続されてゆくのは爽快です。個別的なものと全体との併存——なにもかもが疑いうるとしても、ここにはすくなくとも信じるに足るものがある。 もちろん歌とともにグラフィックも美しいので、ぜひ実際に手にとってご覧になることをおすすめします。 夢幻はこちらへやってくる
さて、僕は冒頭で、この本『朝になっちゃうね』には「夢幻的」な美しさがあると書いたのでした。今にしてみれば、そこにすべての解答は準備されていたのかもしれません。
「夢幻」ということばは、フィクションとしての「幻想」と対比するとき、その現実的条件としての性格をあらわにします。幻想はたとえば「幻想文学」というように、それが幻想であると意識されるかぎりにおいて、われわれに無限の可能性をひらいてくれる(そうでなければ「あいつは幻想を抱いている」などと非難されてしまう)。一方で、それと意識しながら夢や幻を見るということは、われわれの有限な自我に対する挑戦といえるでしょう。 夢幻はこちらへやってくるもの、幻想はこちらから出向いてゆくものとでもいえるでしょうか。 夢幻であると知りながら掴もうとせずにはいられない美――その途方もなさ。
ずいぶんと長くなりましたが、真剣に向き合うに足る一冊だったことは間違いありません。
しかし、こういうZINEという形態も面白いですね。文学フリマの理念にぴったりかもしれません。 夜も深まってきたので、今日はここまで。 それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
(おまけ:ポップミュージック)
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昨年秋の文学フリマ、当日僕は残念ながら参加できず(ご挨拶できなかった皆様すみません)、久湊に頼んで買ってきてもらったのが、このZINE『朝になっちゃうね』です。 初谷むいさんによる文――口語短歌のようでも、自由律詩のようでもある言葉と、 横井もも代さんによるデザイン――夜明けに羽ばたく鳥のようにも、バスタブに浮かぶ花びらのようにも見える幾何学模様の装丁とが、夢幻的な美しさをみせる一冊です。 ――いや、これでは何も言っていないのと同じことですね。 「なんだかよくわからないけど良い」という陳腐な感想を書くことは憚られたものの、僕自身まだこの本のことをよく掴み切れていません。だからこそ、あえて記事にしてみようと思います。 正体を見極めるために書く、という怠惰な書評にもいくばくかの価値を見出してくれる読者の寛大さを信じて。 書名についてまずはこのなんとも秀逸なタイトルについて。 この『朝になっちゃうね』には、「#01 それからのわたしたちのその途方もなさ」という副題がついています。 おそらくここに短歌の詩型意識があることは間違いないでしょう。 どういうことか。歌人の山田航さんの言葉を参照してみます。 「短歌4拍子説」というものが現代ではかなり浸透しており、短歌は厳密に言えば5・7・5・7・7ではなく4拍5小節のリズム内なら何をやってもいい詩型であると捉えたうえで作られている短歌が現代にはたくさんある。 補足すると、短歌には5・7・5・7・7の韻律の原則からあえて外れる「句またがり」という技法がありますから、それを用いて、五小節のなかで(ときにはそこからも外れながら)自由に詠むことが可能になっているということでしょう。 仮にこの本のタイトルを定型どおりに切ってみると、 (5音)あさになっ となり、初句と二句、四句と結句のあいだで文節が句を「またがって」いることが分かります。 (※短歌では撥音「っ」は1音とし、拗音「ゃ、ゅ、ょ」は音に数えません) なお、いま僕は二句の音数を揃えるために、本の号数表記と思われる「#01」に無理やり「ぜろいち」という音をあてています。そうすることによってなじみ深い三十一文字の詩型を回復できますし、「ぜろに」や「ぜろさん」を予感させることで、「朝になっちゃうね」という台詞に続くいくつものパラレルワールドの存在を示すこともできる。 しかし、ひょっとするとここではあえて「読まない」という勇気が求められているのかもしれません。どういうことか。 あさになっちゃうね/◯◯◯◯/それからの/わたしたちの/そのとほうもなさ ◯◯◯◯は四拍分の休符だと思ってください。 「朝になっちゃうね」と呟いたあとの沈黙、無言の「間」がそこにあるのです。 場末のホテルに泊まって、夜通し起きていたふたりが、白み始めた窓の外をみてふと「朝になっちゃうね」とつぶやく。徹夜してしまった重たい頭で、新しく始まろうとしている一日のことを考えて、とほうもなくなる。 音響工学では、無音の部屋でマイクを用いて録音したときの「サーッ」という音を「ホワイトノイズ」と呼ぶそうですが、まさにこの「間」はそれに等しい、無言の音声的表現なのです。これは定型詩でなければできないことです。決められた五七五七七という韻律があってはじめて可聴化されるギャップなのですから。 そしてこの休符(全休符)を挟むことによって、詩は現代短歌における五小節の原則をも維持しえています。なんと周到で緻密な、そして洗練された表現であることでしょう。 大胆、さらに大胆、そしてつねに大胆。山田氏は、以下のように述べて、初谷さんの作風が現代短歌における「リズム感覚の革命」であると評しています。 「短歌4拍子説」を歌人たちが内面化したのは西洋音楽の感覚が日本中に行き届くようになってからだろう。(中略)しかし西洋音楽のリズム感を身につけて4拍子を使いこなしてきた現代歌人たちですら、「休符」をうまく使いこなすことはこれまでなかなか出来ていなかった。初谷むいは「休符」の力を使いこなそうとする新しいリズム感に挑戦しており、そしてそのベースになっているのは現代のポップ・ミュージックのセンスではないかと思われる ポップ・ミュージックのセンス、というのが何のことを指すのか、僕にはまだ理解できていませんが、たとえばポップ音楽の大部分は、4拍子かつ「8ないし4小節」をひとまとまりとして作曲されていますから、「朝になっちゃうね」において、二句目がまるっと落ちて「4小節」に接近していることもまた必然なのかもしれません。 とはいえ、ここで注意しなければならないのは、この無言の「間」=「途方もなさそのもの」ではないということです。もしそうだとすると、 朝になっちゃうね/◯◯◯◯(=途方もなさ)/それからの/わたしたちの/その途方もなさ と、二重に「途方もなさ」について詠み込んでいることになってしまう。ですから、この「間」というのは、あくまで「次第に明るくなってゆく窓をふたりが眺める」時間でなければならない。途方もなさはその後にやってくる感情です。 換言すれば、作者はここで巧みに休符(=書かないこと)を用いてみせていますが、しかし鍵となる心理、すなわち「途方もなさ」については、はっきりと言葉にしているということです。「書かないことで書く」というようないたずらに敗北主義的な破調ではなく、あくまで「書く」、すなわち言語への透徹した意識があることを忘れてはいけないように思います。 有色雑音ところで、ホワイトノイズ、と書いたのには、もうひとつ理由があります。 それは横井もも代さんによる装丁の素晴らしさを伝えるため。 この本の表紙は、幾何学模様の印刷された紙のうえに、大きさの異なる半透明の紙が重なるつくりになっています。トレーシングペーパー的なアレです。 このトレーシングペーパー的なアレをパタパタ開いたり閉じたりすると、背景の模様がぼんやり浮かんできたり、消えたりするのですが、これがなんとも美しい。少しだけ開けられた窓のむこうに、早朝の街の色づかいが見えてくるようです――夜明け前のひときわ暗い空のような濃紺と、今はまだ地平線のむこうで準備されている朝陽のようなローズピンク、そして無機質なコンクリートを思わせるグレー。夢見るような曲線によって描かれたビフォア・ドーンの世界です。 だとするならば、このうっすらと白い半透明紙は、そんな夜明けの窓のこちらがわに広がる親密な世界――「朝になっちゃうね」を包み込む沈黙――の卓抜な表現とみることができるでしょう。 そして、そこに書かれたタイトルロゴもまた、よくできています。大きさの不揃いな、すこし傾いたレトロな書体は、無邪気で楽しげなようにも、追憶のせつなさを宿しているようにも見えます。気心の知れた友達どうしのじゃれあうような「朝になっちゃうね」なのか、これで最後と決めた夜をすごす恋人たちの「朝になっちゃうね」なのか……そうして訪れるいくつもの「途方もなさ」に思いを馳せることは、まったく幸せな読書というほかありません。 血と涙さて、内容の分析に入りましょう。
しかし、どのような切り口で書いたものでしょうか。だいたいが短詩型文学というものは、語られるものよりも、余情として示されるものの方が必然的に多くなるわけですから、評者の側にも肉を斬らせて骨を断つようなきびしい覚悟と選択がなければなりません。 だとするならば……初谷むいという歌人の言語操作における洗練については上でひとまず論証しえたものとして、次はその目指すものについて考えてみるのがよいかもしれません。 実家の母から突然のLINEです。 「ちょいとお願いです 2度読み返して、こう返しました。 「無茶です(原文ママ)」 母からの連絡は大抵こういった依頼ごとなので内容自体は特筆することもなく、まぁ強いて言えばキャッシュレス全盛のこの時代にクレジットカードの登録方法もわからないのかと嘆息する程度なのですが、ちょうどふた月くらい前の連絡では「ペイペイの登録方法を教えて」とまるでSiriにでも頼むかのように言われたので今回は自分で情報を収集できたことに喜びを見出すべきなのかもしれません。母よ、息子はあなたの成長が嬉しいです。 ともあれさすが天下のシャープ様(ステマではない)、SDGsに則り大衆に向けて即物的な貢献をされる、しかもその宣伝が行き渡っていることの素晴らしさ、その質実剛健なブランディング力(繰り返すがステマではない)に惹かれてちょっと見るだけ見てみようかな、と思い先のサイトにアクセスしてみました。 すると、サイト下部にTwitterの埋め込みバーが。トップには誰かのリツイートが表示されていました。
いうまでもなく寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」のオマージュです(よね?)。 ハッシュタグ化されているので皆さんの目にも留まっているかもしれませんが、いやなんとも、うまいこと言ったものです。まさに目のつけどころがシャープ(最近聞かない)。全国的な自主的自宅軟禁ムードにうまく光をあて、かつ巨大企業に求められるノーブルオブリゲーションめいたものも果たす名文。でもなぜだかRT、いいね共にそこまで伸びていない。なんでだろう。こういうところがTwitterの難しいところなんだろうか。 とにかく面白そうだったのでパラパラみてたんですが、界隈ではこのハッシュタグがこの外出自粛期間に読むべきおすすめの本紹介のpostに付されるようになっており、結構な数使われているようでした。とりあえず僕もこれ書いたら流れに乗ってみようかなって思います。 ところで。 僕てっきり「書を捨てよ町へ出よう」は寺山の言だと思っていたんですが、調べてみるとどうやら違うようでした。 寺山修司は言わずと知れた劇作家ですが、彼の主宰した劇団「天井桟敷」は60年代のアングラ演劇ブームの火付け役でした。『毛皮のマリー』『身毒丸』なんかで有名ですね。『身毒丸』は95年に蜷川幸雄演出・藤原竜也主演で、『毛皮のマリー』は昨年2019年に美輪明宏主演で上演されるなど、今でも語り継がれカルト的な人気を誇る戯曲を数多く生み出しました。毛皮のマリー、チケット外れたんだよな……。 (ちなみに僕はあんまり詳しくないんですが、寺山作品を全作品上演することを目標に掲げている【池の下】さんという団体の演出が結構好きです。寺山好きの方はぜひ!) その「天井桟敷」の数ある作品の中でも出世作と言われているのが『ハイティーン詩 書を捨てよ町へ出よう』です。上演の前年に刊行された寺山本人による評論集「書を捨てよ町へ出よう」がタイトルとして選ばれました。 僕は映画版しか見てませんが、 「映画館の暗闇でそうやって腰掛けていたって何も始まらないよ…」 という猛烈なメタ発言から始まる暗くてじめっとした物語軸、憤懣やる方ない青春を過ごす主人公の鬱屈した存在感、過激なミュージカル演出と、胃もたれするような要素がこれでもかと詰まっていたように感じました。 高カロリー高タンパク。 とまあ、冗長に書いてしまいそうになったので閑話休題、 込み入った寺山修司論的なものは詳しい方に任せるとして、問題はタイトルの出典でしたね。 寺山自身は早稲田大学在学時に病気をしたようで、長い入院生活、療養期間の中で大量の本を読んだとされています。そりゃ読むでしょうが、量が尋常ではなかったのでしょう。復帰後その時の経験から評論集「書を捨てよ町へ出よう」を出版、そのタイトルについて巻末にて触れています。これによると、厖大な読書の中で見つけたアンドレ・ジッドの『地の糧』という紀行詩集に、「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉が出てくるとのことなのです。 このタイトル、受け取り方は人それぞれですが、おおかた、 「本を読むのはそれくらいにして、外に出ていろいろな体験をしようぜ!」 という反読書論的・体験至上主義的なスタンスを想像すると思います。まるで「この本を読むなよ!」とでも言わんばかりの表題におかしみを感じて多くの人がこの本を手に取ったはず。にもかかわらずそのタイトルそのものがマニアックな本の引用というのはこれいかに。 ともすれば逆にものすごく寺山的であると言えるようなこの斜に構えた命名に、寺山自身は何か説明を付しているわけではありません。しかし寺山は、それにジッドは、どうやら生涯を通して大変な読書家であったらしいということがあちらこちらで見受けられます。 一方で、知識への執着から抜け出し、生の実感を得るべく体験を求めるという筋書きには、 他にも思い当たるところがあります。 18世紀ドイツの文豪ゲーテの戯曲『ファウスト』。その主人公であるファウスト博士は、当時ヨーロッパで主柱とされた哲学・神学・法学・医学そのどれもに精通していた大天才でした。しかし博士は猛烈な知識の探究・研究の果てに、ほんとうに知りたいことは学問ではわからないということに気づき絶望します。彼は誘惑の悪魔メフィストフェレスを召喚し自らを青年へと若返らせ、全く違う生き方を求めるようになる。「モノ消費」よりも「コト消費」がありがたがられる昨今、ファウストの選択は我々に少なからず示唆を与えてくれるように思います。 ゲーテやジッド、寺山の言は「書を捨てる」事に重きを置いていない。むしろ「捨てる」ためには多くを読み、知らなければならない。単に「捨てる」という言葉の鋭利さを利用した秀逸な皮肉だったのではないでしょうか。 さて、シャープさんの言う通り、今は町へ出るべきではありません。もちろん「町」はドアの外にだけ広がっているわけではありませんが、この機会に「書」を読む事に徹するのも悪くないかもしれませんね。 コロナ禍に僕たちができることもほとんどありませんが、 よろしければ、我々の雑誌もぜひお供させていただければと思います。 (持ってない方、下のコメントフォーム等からご連絡いただければ郵送等でご対応できるかもしれません!) 余談ですが、なんとシャープ株式会社公式アカウントの中の人こと山本隆博さん、
文フリ参戦してた。 Amazon在庫もあるようなので、気になった方は調べてみてくださいね! 5月文フリは開催中止となりましたが、11月(もしくはもっと早く?)はより一層盛り上がりそうですね。 我々習作派も精一杯頑張りますよ! それでは、僕はSHARP COCORO LIFEの登録作業があるのでこの辺で。 おやすみなさい。 (参考:http://lib.soka.ac.jp/Library/SEASON/no9/sno9_1.htm) |