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いとも短き文芸時評:乗代雄介『旅する練習』

5/19/2021

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文学フリマにむけて書いていた作品の入稿が終わり、山のように資料が積み重なった机上を片付けていて、ふと読みたくなった本がありました。乗代雄介さんの『旅する練習』です。
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宝石はその小ささゆえに

芥川龍之介賞は次点(受賞は宇佐見りん『推し、燃ゆ』)、そして三島由紀夫賞を受賞した作品です。帯が資料の山にまぎれてどこかへいってしまったのでうろ覚えですが、「歩く・書く・蹴る ロード・ノベルの傑作」みたいなキャッチコピーが付されていました。

 余談ですが、僕はこのくらいの分量(原稿用紙二百枚前後くらい)の、短編一作品からなるハードカバー書籍がとても好きです。なぜなら、この空間に対して余白の多いコンパクトさは、ほとんどそのまま純文学で書く若手作家の可能性そのものだから。
 純文学における新人作家の登竜門とされる芥川賞は、主に中・短編をその審査対象としています。それに合わせたのであろう各文芸誌の新人賞も、おおむねこのくらいの規定枚数になっています。いっぽうでベテランになると長いものが増えたり、短編集として編まれたりと、こうした小品はあまり出版されなくなるように思います(たとえば村上春樹さんは、デビュー後数作で長編に移行していったために結局芥川賞を獲らずに終わった、なんて言われることもありますね)。ですから、この小ささ・薄さはとても象徴的なもの。「あえて本にしている」というか、若手作家のみずみずしく荒削りな才能を、出版社が大切に送り出しているような気がして、手にした時に読者として新鮮なよろこびがあるのです。あるいはそれが、脱稿直後の僕自身の気分とも符合していたのかもしれません。

閑話休題、内容についてです。
帯に「ロード・ノベル」と書かれているのだから、もちろんロード・ノベルなはずがない、そう思って読み始めたのでした。
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ロード・のべらない

小説家の「私」は、中学受験を終えたばかりの姪・亜美とともに、我孫子から鹿島へ向かって徒歩の旅をはじめます。鹿島といえばJリーグクラブ・鹿島アントラーズのホームであり、日本におけるサッカー文化を開花させたはじまりの街。サッカー少女である亜美がかつてそこへ合宿にゆき、ある「忘れもの」をしてきたことが旅のきっかけでした。利根川沿いの堤防を、亜美はドリブルをしながら、そして「私」はおりにふれ野鳥の生態や過去の文学者への追想をまじえた紀行文を書き留めながら、いっしょに歩いてゆくのです。

アントラーズに、そして日本のサッカー人に、選手としてのプロフェッショナリズムを根付かせたのは、ほかでもないアルトゥール・アントゥネス・コインブラ、すなわちジーコでした。作中でもこのジーコと、日本中を歩き回って旅をした民俗学者・柳田國男のふたりの言葉がたびたび引用されます。両者に共通するのは「忍耐」ということですが、それについて印象的な表現を引用してみます。
そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。(中略)この旅の記憶に浮わついて手を止めようとする心の震えを静め、忍耐し、書かなければならない。後には文字が成果ではなく、灰のように残るだけだろう。(p.104)
その影を残すことが、私にとっては鮮やかな記憶を文字で黒々と塗りつぶすことだとしても、死が我々に忘れさせるものを前に手をこまねいているわけにはいかないのだ。書き続けることで、かくされたものへの意識を絶やさない自分を、この世のささやかな光源として立たせておく。そのための忍耐と記憶——(中略)「人生には絶対に忘れてはならない二つの大切な言葉がある。それは忍耐と記憶という言葉だ。忍耐という言葉を忘れない記憶が必要だということさ」(p.130)
前者は柳田國男の、後者はジーコの言葉を受けたものです。物語の結末にかかわるので、その意味について詳述することは避けますが、しかしこの表現は、僕に次の歌を思い起こさせました。
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき (藤原清輔)
生きながらえていれば、現在のことも懐かしく思い出されるのであろうか。辛いと思っていたあのころのことが、今では恋しく思われるのだから。
新古今和歌集に採られ、百人一首にもおさめられている有名な一首ですが、僕は昔からこの歌がとても好きです。追憶のもたらす繊細なセンティメントと、平安人らしい長閑なオプティミズムが溶けあった、なんとも高雅な詠みぶりだと思いませんか。
 こうしたノーブルな態度は、単純に「生きられる」ものというよりも、「書かれる」ことによってはじめて意味をもつものであるような気がしています。運命に身を任せるのではなく、かといって悲嘆に暮れるのでもないとすれば、それは記憶され、詠まれ=口にされ、書き留められることによってはじめて楽観論たりうる。それが生の現実とのつながりを保ったまま、同時に現実を超え出てゆくような強靭さを獲得するためには、そこに明確な「意志」の発露がなければならないように思うのです。本作品の題にある「旅」とは、畢竟この「意志」のことではないかと僕には思われます。その意味で、やはりこの物語はロード・ノベルではなかった。茫洋とした道のひろがりを「前にした」小説、まさに「旅する練習」にほかならない。


だとすれば、それは外出を封じられ、うつりゆく世界を前にしながらどこへも旅することができずに自室で「忍耐」を迫られているわれわれにとってぴったりな小説なのかもしれません。


芥川賞の選評では、人物造形の難や、形式を束縛している作者のナルチシズムが問題にされていました。そうした部分についてはいったん措くとして、「現代小説」の試みとして面白いなと思ったので、記事にしておきます。

ひさしぶりのブログなので、今日はここまで。
それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
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文芸書評:【ラドン】より『上陸』

12/4/2020

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月並みですが、早いもんで12月ですね。

いよいよ迫る年波に対抗するべく(?)地元ヤンキーがよく着てる「着る毛布」ってやつを買ってみましたが、確かにあったかいものの顔と手先だけはどうしようもなく冷えるので、結局ファンヒーターを解禁しました。ヤンキーもなかなか苦労しているようです。



​少し間が空いてしまいましたが、第4回目はラドン「上陸」レビューです。


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装丁
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​暗く荒らしい海を背景に中央で分割された蛍光色の「上陸」の文字。
これでもかと目を惹くデザインです。

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​よく見ると背景は油絵のようです。白波が真ん中に配置され、手前の岩べりにも力強く重なっている。粗野に見えるタッチですが、波間の色の重ねや奥から迫ってくる何か(おそらく『ラドン』)のあらわれから、その細かな筆遣いが見て取れます。なんかこううまいこと言葉にしたいんですが「大胆かつ繊細」なんていう常套句しか出てこないのがもどかしい。


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背表紙と裏面は文字の蛍光色で統一され、ロゴの上に一筆書きの足跡が付されている、というか踏まれている。とても凝った作りです。「新しい」という言葉がしっくりくるデザインですね。すごいなあ。
表紙を担当された(と思われる)「安倍志緒里」さんについてちょっと調べてみましたが、この御名義では検索には引っかかりませんでした。もっと他の作品も見てみたい……。
 
 
 
さて、毎度のことですが同人誌ですので、全編について書いているといつまで経っても書き上がらず、気づいた頃には次の文フリでした、となりかねないため、一編に絞って書いていこうと思います。






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直嶋犀次『Slip and Slips』




文フリ会場で直接買わせていただいたご縁ということもあり、今回は直嶋さんの作品について書きたいと思います。



​当初僕はいつものように、あらすじを書かせていただきつつ書評を進める、という形式で書こうと思っていました。読み終わった「上陸」を机に伏せ、ノートのページをめくってボールペンをノックし、いざ書き始めようとなかぐろを1つ打って、何から書けば良いのか分からなくなりました。
 
 
 
『Slip and Slips』では、何も起こりません。私小説ではないものの、取り立てて事件が起こるわけではない。ナンセンス的展開があるわけでもない。難解な構造や文章があるわけでもない。主人公を通して、彼女の1年間を追っていく、言ってしまえばそれだけの話です。今まで書評をあげてきたような作品とは決定的に違う、そう感じます。
 
 
 
「面白かった点は」「強いて挙げるなら改善点は」というような感想を書いても、なんというか空虚なのです。しかし「印象に残ったシーンは」と問われば、それは間違いなく答えられる。「面白いのか」と聞かれるまでもなく「好きだ」と叫ぶ、そんな類の短編でした。
 
 
 
どう書くか決めかねましたが、ぽつりぽつり思いつくことを書いてみようと思います。まとまりのない文章になってしまったらすみません。


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「重なり」の文学



Tinderで浮気をした女
相手の年下の女の家に通うようになる
夏の終わりを最後に彼の家へ行くこともなくなり
秋が来て、冬を過ごし
春のはじめに元彼からプロポーズを受ける
婚約を受け、年下の男に連絡をとると
彼はひとまわり大人びて見え
彼との会話の中で新入社員の女の子のことを思い出す




あらすじを無理に書き出すとすれば、本作はこのように要約されます。
しかし、前述の通りこの筋には何ら意味はなく、事実を主人公の目線で追うための標でしかありません。本作の魅力を一言で言ってしまうのならば、それは「重なり」です。
 
 
 
「事実があるのだから、理由があるはずなのだ」なんて永井均みたいなことを言う主人公の女性から語られる、余計な連体修飾のない、切れ味のある文章。熱量を持たない文体で引かれた白糸に、上品な質感の横糸が無数に通され紡がれる絹織物のようなストーリー。通される横糸には全て、「ズレ」という共通点があります。
 
 
 
主人公が会社で扱う会計システム。複雑怪奇に書き表されるこのソフトは、全ての用語が英語で表記されています。単語の専門的な意味がわからなかった彼女は全てGoogle翻訳に流し込み、一字一句意味をノートに写しますが、同期社員にそれを訂正されることになります。​

「これ、ひとつめは伝票、だと思う」と軽く言うこの同期はいい大学を出ていた。それから彼は笑って、「次のは突合、だよ。和解って何さ。誰と和解するのよ」
ひとつめは「slip」、もうひとつは「reconciliation」という単語への言及です。彼女は「slip」を「ズレ」、「reconciliation」を「和解」と訳していました。
 
 
 
モノローグの終盤、印象的に配置されたこの秀逸なエピソードは、奇妙な引っかかりを残します。いや、それまでの語りの中にも引っかかりはあるものの、また異質なのです。この「ズレ」「和解」という誤訳がこの文章を小説たらしめているそのものであり、もっとも文学的だとも言えます。
 
 
 
高校生の頃の荒れていた自分、大学で周りにあわせてギャルになった自分。そんな自分を受け入れてくれた「涼くん」、彼を裏切るようにして出会った「門脇くん」。バスケをする子供たち、彼らの母親、淡々と過ぎていく日々。いつの間にか変わっている周囲(世界)、取り残されていく自分。そういう「ズレ」がひとつひとつ、主人公の目線に織り込まれてゆきます。



​

コーヒーにミルク、入れる?入れない?



印象に残った描写という観点でいくと、コーヒーに入れるミルクの量についての言及があります。
 
 
 
「涼くん」は就寝前に飲むコーヒーに、ほんの数滴のミルクを入れます。その数滴のせいでよくわからない液体になってしまったコーヒーに、主人公が淡々と考えを述べるシーンです。

そんな少しだけ入れて、コーヒーなんだかカフェラテなんだかわからない状態では気持ち悪いから、私ならもっとたくさん入れて、誰がどう見てもカフェラテなものにするのに、と思う。そしてコーヒーが飲みたいのであれば、牛乳なんて入れなければいい。牛乳を数滴入れた時点で、それはもうコーヒーではない、不思議なものの気がする。もう混ざってしまって、元のわかりやすい状態には戻せないのだから、いっそのこともっと牛乳を入れて、全てを有耶無耶にしてしまいたくなる。私の性格には合わないそういう飲み物を、涼くんは好んでいた。
「もっとたくさん」「もっと牛乳を入れて」と2度も強調していることから、この涼くんの飲む液体に対しての理解できなさが見られます。前述の「事実があるのだから……」同様、主人公の性格を表す描写です。
 
 
 
余談ですが、この理論には僕は否定的です。カフェラテだろうがカフェオレだろうが、単に苦味を抑えて飲みやすくしているだけにしか思えません。風味を楽しむなら牛乳は邪魔で、飲みにくいというならコーヒー豆を挽く資格はありません。ミルクティーやティーラテのように、ミルクを先入することでタンニンとミルクが反応して風味が変化するようなこともないのですから、コーヒーにミルクは邪道です。その前提でどうしてもミルク入りのコーヒー的なものを飲みたいのであれば、本場イタリアの飲み方であるエスプレッソに少量のミルクを入れたカフェラテが許容範囲ギリギリです。カプチーノ?知らんそんなものは。
 
 
 
閑話休題、文字通り「白黒はっきりしたい」主人公ですが、言動不一致な箇所が散見されます。くっついて別れてを繰り返し、現在は別れている「涼くん」とは同棲を続けていますし、別れているにもかかわらず「門脇くん」との行為は「浮気」と断じています。こういった部分には「血の通い」を感じることができますし、「ズレ」というものがここにも顔をのぞかせています。
 
 
 
時系が前後しますが、「門脇くん」はコーヒーにはしっかりミルクを入れます。普通のコーヒーにフレッシュを入れるカフェオレですが、主人公はここに自分との共通点を見ているように思えます。「涼くん」にはない、「新しい」要素です。
 
​

「正しい訳」と「誤訳」



カフェを出て「門脇くん」の部屋に向かうと、部屋に猫がいるといいます。彼女は猫アレルギーです。にも関わらず入室を了承するのは、彼の「新しさ」にそれだけ興味を持っているからでしょうか。
セックスを終えると、案の定彼女はくしゃみが止まらなくなります。そして鼻をかみながら、奇妙な空想が始まります。この部屋に住んでいるのは自分と涼くんで、ずっと前から2人と、それと猫で暮らしてきた――。
 
 
 
この描写、この文脈での挿入、圧巻です。これだけで一読の価値があると言っても差し支えないでしょう。引用しようかとも思いましたが、ぜひこれは文脈の中で読んでほしい。猛烈なリアリティを読者に突きつけ、「涼くん」との「ズレ」、現実と空想の「ズレ」、自分の中の「ズレ」を1センテンスでまとめ、その後の「門脇くん」への接し方への転換点にもなっている。僕が読後一番印象に残っていたシーンです。
 
 
 
登場人物たちとの「ズレ」を感じつつ、それを修正できないでいる主人公を見ていると、あたかもその登場人物たちの方が特異であるように映りがちだと思いますが、本作『Slip and Slips』ではそれが見られません。逆に言えば、一人称視点から男たちを見て、会話が抑えられることで彼らの人間性の要素を排し、変化だけをフォーカスしているように見えます。
 
 
 
このたくらみは成功していて、終盤プロポーズしてくる「涼くん」や、再会した「門脇くん」たちは明確に変化しているのに対し「わたし」は無変化でいるというコントラストが非常にわかりやすくなっており、物語のエネルギーを急激に引き上げてゆきます。
 
 
 
また、ここにきて「reconciliation」が効いてくるのも上手い。

とにかく複雑、怪奇なのだ。同じことをしていたはずなのに、出てくる結果が違ったりする。同じになるはずの数字が、ずっと違うまま、一致しない。
とにかくこのシステムは謎を孕んでいるのだ。内部には、どれだけ強い光で照らしても永遠に暗いままのところがあって、運が悪いとそれがわたしの画面に姿を現してくる、つまりこれは占いみたいなものだ、とようやくわたしが降参したのは、一年目が終わりかけた頃だった。

​会計システムの描写からの抜粋ですが、ここでいう「永遠に暗いままのところ」からはじき出された数字が「ズレ」ている、という構造になっており(なんて書くのも恥ずかしいですが)、「わたし」が「門脇くん」を見ている間に「永遠に暗いままのところ」で変化した「涼くん」がはじき出された結果、唐突にプロポーズを受けることになってしまう、という構図が理解できます。
 
 
 
「突合」とは、字の通り突き合わせです。「涼くん」と「わたし」が突き合わされた結果、「わたし」は結婚することになります。前向きでも後ろ向きでもなく、ニュートラルに。目に見えた変化を彼女は起こしていませんが、「突合」は同じ数値でなければなりません。「涼くん」と同値になることが必要で、もしかしたら彼女も変化していたのかもしれません。変化とは、自覚的でないからこそ振り返って気づくことができるものです。
どうしてあのときのわたしといまのわたしが時間的に繋がっているのか、こうして思い返すと、本当に不思議な気持ちになる。同じ人間だろうか、同じ人間らしい。
 物語前半からの抜粋です。
彼女自身も、もしかしたらそう感じているのかもしれません。



「突合」を正しい訳とするならば、誤訳を担うのは「門脇くん」です。誘いを何度も袖にしてきた彼との再会は、とても和やかなものです。「和解」、というにはアクセントが不足している気もしますが、そういった読みをしたくなる展開です。
 
 
 
また、これは考え過ぎかもしれませんが、ていうか考え過ぎだと思うんですけど、「突合」と「嫁ごう」をかけているのだとしたらこれはもう相当に緻密で、しかもクスッと笑えてしまう無敵の短編かもしれません。まぁ、読みは人それぞれってことで……。
 
 
 
こういった精緻な「重なり」が物語をつくり、また本作最大の魅力だとも言えます。


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ヘテロフォニー的「重なり」




​「重なり」と聞くと、中高吹奏楽部の僕は「音の重なり=合唱・合奏」を連想してしまうのですが、ミハイル・バフチンは『ドストエフスキーの詩学』において、登場人物たちの独立した人格が「対話」をすることで小説独特な表現を可能にしている、という旨の指摘を「ポリフォニー(多声音楽)」という語を用いて論じています。
 
 
 
彼はトルストイを引き合いに出し、ドストエフスキーがポリフォニー的であるならばトルストイはモノフォニー(単声音楽)的であるといい、その単声とはつまりトルストイ本人であるため、自身の人格に反対する人格をおよそ自己完成から程遠い人物として描く、として批判しています。
 
 
 
この考えに照らしてみると、『Slip and Slips』は「対話」によって成立しているとは言い難いです。しかしながら小説独特の表現には成功していると言わざるを得ない。他の芸術媒体では得られないような面白さが、面白さの方から襲ってくるような感覚が確かにあるためです。
 
 
 
極めてモノフォニー的でありながらその「ズレ」を複雑化させることによって、自らの声を重ねるように織りなす音楽を「ヘテロフォニー」と呼びます。リズムやテンポをほんの少しずらすことで偶発的なポリフォニーを生むものを指し、本作の「ズレ」の構造をもってみると、この表現はまことにしっくりときます。
 
 
 
もっと言うのであれば、この「ズレ」の構図は非常に緻密であることが要求されるため、より多くのファクターをより複雑に組み合わせることで、全体的な響きの厚みを増すことも可能であるように思います。1年で構成された物語の半分、秋冬での展開であったり、異性の登場人物(バスケ少年の母を連想させるなら尚更)が関わってくればそれは達せられるのかもしれませんが、それはひとつの視点においてのみの話です。『Slip and Slips』がほとんど完成されている文学であることに疑いはありません。


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タイトルについて




いち読者が解題の真似事をするのもどうかと思いますが、『Slip and Slips』というタイトルについて自分なりに考えてみました。
 
単に「ズレ」を言いたいのであれば「Slips」で事足りるはずで、わざわざ2語に分ける必要はありません。また「伝票」という本来の用法が出てくるのも少し考えにくい、となった時に、単数形と複数形であることに立ち戻ってみました。
 
 
 
前者は「わたし」のズレ、後者は「周囲(世界)」のズレ。つまり
 
(my) Slip and (their) Slips
 
とすると、また違った風景が見えてきます。
 
 
 
「わたし」の知らないところで変わっていた「涼くん」が、もしかしたら感じていたかもしれない「わたし」の変化。「門脇くん」を通して、バスケ少年たちを通して、彼女は知らぬ間に変化することができており、それがプロポーズへとつながっていた。そう読むと、この短編は救済の物語なのかもしれません。
 
 
 
最終盤、「わたし」が後輩の子にあの会計システムについて教える場面回想が挿入されます。「わたし」のいうことに相槌をうちメモをとる後輩。
「はい、はい。……ゆうのさん、あの」
「なに?」
「いえ、ありがとうございます。和解じゃなくて、突合ですね。ズレじゃなくて、伝票」
「わたし」はこの後輩に変わる前の自分を見ていた、と解せば、彼女は自分の変化を振り返ることができるようになっていたということが示されます。


そう取らず、生きづらい「わたし」の物語、とも取れるというのが直嶋さんの強みです。こうした読者を「信頼する」書き方というのは僕が長いこと憧れているものなので、非常に勉強にもなりました。読み筋を固定しないという匙加減は、本当に難しいのです。


​

なぜ「文学」をやるのか




はじめに書いた通り、書評を書くにあたり、何を書いたものやら思案しました。なぜ書き方がわからないのかわからないままだったのですが、書き終えたいま、それが少し思い当たるような気がしています。
 
 
 
それは『Slip and Slips』が、いや、「上陸」が、ラドンがとても「文学」しているからなのではないでしょうか。
先ごろ習作派のTwitterでもRTさせていただきましたが、「上陸」の編集後記が公開されています。

文フリ東京お疲れさまでした。最後に今回の「上陸」から、小説よりも感動的だとメンバーに人気の『編集後記』を抜粋しておきます。ありがとうございました。半年後にまたお会いしましょう。 pic.twitter.com/uYd2YzLesw

— ラドン (@maisonderadon) November 23, 2020
​僭越ながら我々こそ現代の真の純文学同人(のひとつ)であると、自負をもってこの小説集を世に送る。
編集・宮元さんの文章です。はっとさせられる。尊大に取られかねないこの文が、小説集の新しさ、強度、若々しさを以て補完されています。蝋燭の外炎に微かに揺れる青さがもっとも熱を伴っているように、静かな慟哭を伺わせるような筆致。それはこの編集後記にも、いずれの短編にも垣間見ることができます。
 
 
 
「この二項に引き裂かれ、部屋の宙で震えながら浮遊」することの苦しさ。それはきっと、常にそれを考え続けることのみで言祝がれるものです。決して時流に媚びることなく、しかしいたずらに脱俗を衒うのでもなく、そうすることが「文学」だと、改めて感じました。
 
 
 
習作派の立ち上げの際、岐阜のアパートの一室でりんご剥きながらああだこうだやっていたあの日。文学に何を求めるのか、誰のために書くのか。そのやりとりが克明に思い出され、書いては出し、また書いては売り、というルーチンに倦み忘れそうになっていた矜恃を甦らせてくれた本でした。
 
 
 
急に自分語りのようになって恐縮ですが、嘘偽りのない感想です。最近はすぐ感傷的になっていかんと思うのですが、おじさんなのでしょうがないかもしれませんね。ぜひ皆様も読んでみてください。他の感想も聞いてみたくなる短編集です。
 
 
 
我々も負けていられません。また文フリでラドンに会えることを楽しみにしつつ(すっかりファンになってしまった)、私たちも「文学」していこうと思います。
 


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それでは、編集会議があるのでこの辺で。


​久湊有起(習作派編集部)
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文芸書評:【滝みゅぅ】「りんごは木から落ちない」より『ユートピア』

11/27/2020

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早くも第3回目です。
 
今回は(実は参加していた)文学フリマ大阪での戦利品の中から、滝みゅぅさんの『りんごは木から落ちない』のレビューを書いていきたいと思います。

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全3篇の短編小説が収められた短編集ということですが、まず、表紙のイラストはおそらく手書きです。やさしいタッチのりんごが直感的にそのまま描かれています。

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あとこのチュッパチャップスもいただいたんですが、この女の子も自作ですね。名刺にもキャラクターのイラストが印字されていました。イラストと文章、双方で活動されているようです。うまい。そしてかわいい。
 
表紙をめくると、こんな文が現れます。


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重力が弱まり、今まで地面に縛られていたものたちがふわりと浮かび上がる。だんだんと高さを増して、陽の光に照らされながらゆっくりと回転し、次第に雲に手が届きそうになってーー。
 
 
 
情景が浮かんでくるようですが、そんな中、「足枷」という単語が際立っています。表紙のデザインやイラストのタッチを見るに、こんなネガティブに寄った単語を使うのは危険ではないか?そんなことを思っていると、机の上の名刺の文字が目に入りました。


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「人の美しさと醜さをやさしく描いた作品を作っています」




なるほど、どうやらこのタッチも作戦のようです。すっかり術中に嵌っていたようでした。
俄然楽しみになりながらページをめくります。




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S F × ファンタジーのプロット




ひとつめの短編『ユートピア』について見てゆきます。
 
 
 
舞台は近未来、タイトルから「Big Brother Is Watching You」的な世界観を想起しましたが、目に見えたディストピア要素はありません。伊藤計劃『ハーモニー』、野崎まど『タイタン』の世界よりも前、テクノロジー面で同定するなら森博嗣『100年シリーズ』くらいでしょうか。
車が空を飛んでいるので『ヒトリノ夜』よりは後ですね(歳がバレる)。
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文明がうんと発達したこの時代では、人が一生懸命働く必要はない。大抵の単純な仕事は機械が代わりに作業をする。


未来を描写する場合、どうしてもサイバーパンク的な言い回しや単語を使いたくなるものですが、『ユートピア』にはそれがほとんどありません。例えば上記の文の場合、僕だったら「機械」ではなく「代替(alt.)」とかそれっぽい名前を勝手に付けちゃうと思いますが(ダサいとか言わないで、これが限界)、滝さんは「機械」は「機械」として書きます。
 
 
 
平易な文、わかりやすい単語で描かれる未来は、S F感の蔓延を抑止し、イラストのテイストとも似たファンタジー的な世界観を醸し出します。この点は最後まで徹底されており、詳しくは後述しますが、主題との親和性も非常に高いです。冒頭の裏切りといい、かなりテクニカルな作家さんですね。





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「信仰」と「科学」の代理人として




物語に視点を戻しましょう。主人公は「解体人」という、既存の建物から資材を取り出す仕事をしています。非科学的なものを信じず、少し理屈っぽい性格をしています。
彼は世界に残る最後の教会の解体を請負います。信仰は廃れており、彼は神というものを信じる文化で育ってきていないためそのありようを想像することしかできないものの、馬鹿馬鹿しいと一蹴するでもない。
 
 
 
職場に着くと、上司から教会に関する不思議な噂を聞かされます。誰も住んでいないはずのその教会に明かりが灯っていたというものです。上司は面倒ごとを主人公に押し付け笑いながら去ってしまう。
 
 
 
教会に赴くと、やはりそこには誰もいません。しかし確かに蝋燭に火が灯っていました。1日待ってみるも現れる人はおらず、2日目に主人公は燭台の火を消し、また灯しにくる人物を待つことにします。
待っている間に、彼はある行動をとります。

​
僕は深呼吸をしたのち、今にも崩れそうな乱雑に置かれているベンチを、ひとつひとつ綺麗に並べ始めた。その行動に意味はなかったけれど、何となくそうしなければいけない気がした。


僕たちが同じ状況なら、人によっては同じような行動を取るかもしれません。しかし彼は信仰というものと全く無縁の人物です。
彼の目線を通して、教会が美しい姿を取り戻す様が描写されてゆきます。金や銀の装飾に加え虹色の光をもたらすステンドグラスまで、彼は丹念に掃除します。ついた時降っていた雨は止み、いつの間にか月光が祭壇の女神像に注いでいます。
 
 
 
とても美しいシーンです。
「イタリアやフランスの閑静な教会は信仰心がなくても神を信じそうになってしまう」と昔教師が嬉しそうに話していたのを思い出しました。彼もきっとそういう心境だったのでしょう。



けれども彼はただ黙々と、しかし慎重に室内の至る所を掃除してゆくのみです。このシンプルさが、のちの展開に非常に効いてくる事になります。
 
 
 
すっかり夜も更け、彼がベンチに腰かけると、突然扉が開き、修道女が入ってきます。彼が思った通り再度火をつけに来たのでした。修道女は整頓された室内を見て驚き、そして落胆します。彼は解体人なのです。
 
 
 
彼と修道女の会話の中で、信仰についての問答が行われます。そこには確かに温度差があり、平行線に見えるも、時折彼は言葉に詰まります。何かを言いかけ、言葉にしようとすると、頭に靄がかかったような感覚に陥る。
 
 
 
修道女は現代の科学に疎く、対話の中で男から様々な情報が開示されます。自然材料を流用し新たな建物を作ること、成人の日に「身体管理機関」から適職を言い渡されること、そして右手に埋め込まれる小さなチップのこと。
チップは生命維持の機能に加え、過度な感情を抑制する機能も有しているといいます。アニメ『PHYCHO-PASS』等でも見られる設定ですね。対話の中でぽつりぽつりと、ディストピアの質感が残されていきます。
 
 
 
単なるファンタジーに留まらないための、必要な仕掛けです。綺麗な装飾が施された小箱を手に取ってみるとずっしりと重く、不思議に思い蓋を開けると歪な鉛の塊が入っていたような、そんな異質感があります。
 
 
 
修道女の誘導から、チップが男の頭の靄を生んでいると暗に示されています。
チップの導くまま間違いなく穏当な生活を送る現代の人々と、楔から解き放たれている修道女。
読者の脳裏には、巻頭の詩が焼きついたままです。
 
 
 
チップを持たない修道女は受肉した女神そのものだったことが静かに明かされ、男の口は噤まれます。女神の涙は彼が初めてみるものでした。女神はこの教会で終わることを望み、男は小さな掘削機を取り出し、おそらくは直前まで女神像を見つめ、そして自分の右手に突き刺します。
 
 
 
女神は驚き駆け寄り、纏ったローブが血に染まりますが、男の顔は対照的です。
 
​
でもその時僕はとてつもない幸福を感じていた。言葉で例えることのできない色鮮やかな感情が全身を駆け巡る。電気信号のような刺激。
それはかつての人々が日常で感じていた幸福なのだと感じた。

生まれて初めての経験にも関わらず彼がそれを甘受したのは、それが余程心地よかったからでしょう。




​

人間的な「神」と人間性を得た「人間」




​場面はかわり、男は怪我をしたものの事なきを得、仕事をやめることとなります。「機関」が決めた最適な道を逸れることを選択したのです。
教会は解体が決まったものの、女神像だけは彼と女神の小さな新居に移されていました。彼と女神の会話がなされ、女神はギリシャ神話の神々のようなとても人間的な話し方をします。
 
 
 
教会での対話の最中から、この片鱗は見えていました。信仰者からの承認欲求であるとか、男に対して声を荒げるといった行動もそのあらわれであるように感じます。人間性を勝ち得た主人公にこの女神が寄り添って生きていくことで、彼が人間としてのユートピアを気付くことが示唆され、幕となります。
 
 
 
実際に読んでみると、名刺にあった「美しさ」「醜さ」「やさしく」の全ての点において、確かに網羅されているという印象を受けました。大前提として、狙い通りの読みをさせる手腕はお見事です。
 
 
 
ただ欲を言うなら「こんなふうなのも読んでみたかった!」という点がいくつかあったので、勝手ながらここに書かせていただきます。
 
 
 
まず前述のSF感の排除という点について、狙いは的確に達せられていると思います。未来設定が主人公の人格に、ファンタジー要素が女神の存在に対称化させられている構造は見応えがありますが、「空飛ぶ車」は直接的すぎるかなと感じました。「空飛ぶ車」に乗り慣れている主人公の一人称視点でそれを目の前にして「空飛ぶ車」と呼ぶのはちょっと抵抗があります。「車は僕が降りると音もなくきた道を戻って行った」くらいなら世界観も設定も守られるかなと思いました。
 
 
 
次に対話の中で出てくるディストピア要素です。書いた通り必要な部分ですが、男の説明という形で大きく2箇所に固まってしまっている関係でどうしても説明的になりすぎているきらいがありました。僕も自分の書くものが理屈っぽいとか説明くさいとよく言われるので難しさはわかっているつもりですが、最終部分以外の全体に説明セリフを分散できると世界観が補強されると思います。
 
 
 
最後に、これは完全に希望なんですが、男の掃除するシーンをもっと書いて欲しかった!!非常に象徴的なシーンで、最終的に男がチップを破壊する動機とでもいうべきものが「何となくそうしなくてはいけない気がした」には込められているはずだと思ったので、より丁寧な描写と、チップ破壊の際に部屋見渡してくれたりしたらもう最高!!と叫んでいたかもしれません。
 
 
 
しかしとにかく、世界観の醸成と女神のパーソナリティについては戦略とアイデアの勝利と言わざるを得ません。イラストのタッチ、文の柔らかさ、言葉のチョイス、全てが「醜さ」と反比例するこの構造は、滝さんだからこそ構築できる世界観であると僕は思います。あとあんな女神はなかなか書けないですよ、少なくとも僕には書けない。
 
 
 
余談ですが、短編集3つのうち、この『ユートピア』と『白き谷』は対照構造になっているのかな、とも感じました。前者が希望の中の暗さ、後者が暗さの中の希望、というような対比です。
 
 
 
というのも(『白き谷』に関しては書けなくて申し訳ないんですが)、『ユートピア』の最終部分はこうなっています。

埋め込まれていたはずのチップは破壊され、もう僕を縛りつけない。身体管理機関では僕が死んだことになっているのかもしれない。チップの情報がなければ、彼らは僕のことなど何一つわからないのだから。

一読して「チップの反応消えたら捜索始まっちゃうんじゃね?」と思っていたところにこのセンテンスだったので、逆に意味深に思えてしまったんです。女神との新しい人生を歩み出すところで終わっていますが、すぐに見つかってチップを埋め込まれてしまう、みたいな。
 
 
 
でも今書いてて思い直しました。ストレートに未来への憧憬で締めている方が綺麗ですよね。「醜さ」は世界観ですでに表れているわけですし、ここでわざわざ仄暗さを出す意味はありません。穿った見方しすぎていました。もっと清らかな人間になりたいです。




​

短編集として




3つ目の短編、『告白』は、個人の語りの体裁をとっています。普通に見れば、滝さんの告白、ということになるでしょう。
 
 
 
この掌編は、他2編と明らかに熱量が違います。異彩を放っている、と言ってもいいでしょう。迂遠な物言いを避け、まさに『告白』の名の通り、真っ直ぐな心情の吐露のみが書かれています。
 
 
 
『告白』ですので、あまり声を大にして言っていいものではないかもしれませんので内容に関しては伏せさせていただきますが、この『告白』、そして巻頭の詩全て合わさって短編集が完成しているように感じました。この技巧は素晴らしいの一言です。
 
 
 
なんか単にあらすじ書いてうだうだ言ってるだけになってないか心配ですが、全編、とても楽しく読ませていただきました。
次号あったら絶対買います。
 
 
 
 
 
 
 
……と、そろそろ編集会議なので今日はこの辺で。
ではまた。

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